幻の花~第十九章  四の宮小町

 貞観十一年(八六九年)正月、在原業平は清々しい新年を迎えた。自分と高子の子供が、天皇になる日を夢想した。その子供、貞明親王は二月になると、藤原良房らの計らいにより、皇太子に立てられた。業平も何故にか、三月、正五位下を授かった。業平は何も知らない太政大臣藤原良房らに笑いが止まらなかった。一方、小町の方は、小野の里で、のんびりしていた。ところが小町の姉、寵子は、藤原有陰が都から去ったことを知り、憂鬱な日々を送っていた。小町は伊勢權守となった従五位下、藤原有陰の妻になる筈であった予想外れの姉の不幸を気の毒に思った。その寵子の悲しみを慰めようと、藤原南雄はひっきりなしに、小野の里に通って来た。四男であったが為に、適当な官職しか与えてもらえず、不貞腐れ遊んでいる南雄にとって、寵子は都合の良い恋人であった。寵子は母の看病を小町に任せ、時々、家からいなくなった。小町は寵子に代わり、母の看病に努めた。そんな小町に相変わらず、男たちが言い寄った。小町は業平の忠告が頭にこびりついていて、近寄る男たちを受け流し、操行堅固を貫いたが、自分の体中に押し寄せる愛欲の洪水を如何にしたら良いのか分からなかった。そこで業平に相談した。

「私はこの世の煩悩から救われる為、お教えに従い仏門に入ろうかと考えております。まず手始めに、遍昭様のいる紫野の雲林院へでも行けば良いのでしょうか?」

「あそこは良くない。遍昭親子は女癖が悪い」

「まあ」

 小町の笑いに業平は赤面しそうになった。他人の女癖の悪さを批評出来るような自分ではないのに。そこで業平は、盲人たちに琵琶や和歌を教え、盲人たちの生きる道を指導している諸羽山の麓、山科の山荘にいる四の宮を紹介することにした。天気の良い春の日、業平は小町を山科の山荘まで連れて行った。業平はかって藤原常行がこの御殿に庭石を献上した時、共に訪れ、歌を詠んだのを思い出した。

  あかねども 岩にぞかふる 色見えぬ

  心を見せむ よしのなければ

 業平は山科の四ノ宮の御殿に訪問すると、山科の禅師、人康親王に小町を紹介した。そして、直ぐに帰って行った。長居して、昔のことを思い出したく無かったからだ。この人康親王仁明天皇の第四皇子で、貞観元年(八五九年)、あの有名な藤原高子に恋文を送り、太政大臣藤原良房に、それを見破られ、宮廷から遠ざけられた人であった。彼は当時、容姿清秀な若者で、業平の恋仇であった。業平と同じく、藤原氏の専横に対し、激しい反感を抱き、藤原氏との間に軋轢が重なるや、その年の五月に出家し、山科の里に隠棲されたという。そして今や、弟子たちに囲まれ、全く風流な毎日を送っていた。人康親王は小町を部屋に招くや、小町に歌を求めた。小町は歌った。

  山里は もののきびしき 事ぞあれ

  世の憂きよりは 住みよかりけり

 人康親王は、業平が連れて来た小町の美麗才媛の程は噂で知っていたが、その当意即妙の歌と美しい声に感嘆した。もし自分が盲目で無かったなら、美麗な小町の容姿を見る事が出来たであろうに。そう思い、その容姿を想像するが、想像はまとまらなかった。人康親王は後悔した。あんな愚かしい事をしなければ、小町の美しい顔が見られただろうに。

  見へねども 肌に触るれば 花のごと

  匂へる君が けしき見へまし

 小町は盲目の人康親王を気の毒に思い、その手を握り、自分の顔や髪に手を触れさせた。すると人康親王は両側から腕を回し、小町を抱え込むようにして、小町に触れた。小町の芳香と優しい手が愛しかった。小町もまた人康親王の法衣に包まれ、恍惚とした気分になった。その快感に身を委ねていると、人康親王の唇が迫って来た。小町は恐る恐る、その唇と自分の唇を重ねた。恥ずかしさより、欲情の方が勝り、二人はもつれ合った。盲人の人康親王なら、自分の恥部を曝け出しても、ひきつれ痕は見えず、問題無いだろうと、小町は大胆になった。業平の考えは甘かった。盲人だから、女癖の悪い遍昭や素性より、安心ということは、全くの間違いであった。激しいもつれ合いが終わると、人康親王が言った。

「この目が見えたなら、どんなに嬉しいことか。さすれば小町よ。そなたの美しい顔を、はっきりと見ることが出来ただろうに」

 小町は、その言葉を聞いて、自分に愛を注いでくれた盲目の人康親王を不憫に思った。何とか励まさなければならぬと優しい声で呟いた。

「世の中には盲目の方が良い時も御座います」

「私も、そう思い、目を潰した」

「目を潰した?」

「そうじゃ」

 人康親王の声に小町はびっくりした。人康親王は何故、目を潰されたのか。小町は、その理由が何であるか知りたかった。その小町の疑問に人康親王が答えた。

「かっての昔、私は先輩、業平と、高子を自分のものにしようと競い合った。ところがその行為は王朝を思いのままにしようとする藤原良房にとって、あってはならぬ事であった。業平と私は藤原良房によって、罰せられ、高子と引き離された。悪逆非道な良房の為すことは皇室に生まれた私にとって、見るに堪えられなかったが、私は、それに刃向かうことが出来なかった。だが業平と高子は、それに反抗し、私の前で死にもの狂いの恋を展開させて見せた。私は見ていられなかった。私は自分の惨めさに、自分の目が見えないことを願った。そして自分の両の目に鋭い針を刺して失明させた。それが憂き世に生きる自分にとって、最良の仕打ちと思われたからだ。しかし今になって思えば、愚かなことをしたものだ」

 小町はその話を聞いて、人康親王を一層、気の毒に思った。小町の人康親王に対する同情は、やがては恋情に変化した。

 

          〇

 そんな時、陸奥の国で大地震が起きた。五月二十六日の夜、突然、夜空に稲妻状の青い閃光が流れたかと思うと、辺りが昼のように明るく照らし出され、天と地がひっくり返る程に揺れた。この大振動に人々は立っていることが出来ず、叫び声をあげて身を伏せた。ある者は家屋の下敷きになって圧死し、ある者は崩れて来る土砂に埋もれ、ある者は地割れに呑まれた。驚いた牛や馬や犬は跳び上がったり、互いに踏みつけ合ったり、ぐるぐる回ったり,奔走したりして、遠くへ逃走した。多くの民家は勿論のこと、国府の城郭や倉庫、門櫓、城壁までもが、多数、崩れ落ちた。まさにこの世の終わりかと思われた。そして、しばらくして、ドーン、ドーンという雷鳴のような海鳴りが聞こえ、海水が湧き上り、海嘯となり、ゴゴーツという音を立て、河を逆流し、昇って来た。次から次へと恐ろしい程、激しく高い津波が陸地に押し寄せた。その為、城下はたちまち濁った津波に呑まれ、破壊物が、あちこちに流されたり、押し寄せたりした。荒れ狂う津波は容赦なく内陸部までをも襲い、野原も田畑も道も果てしなく水浸しとなり、大海原となった。人々は山に逃げたり、舟で逃げたりしたが、逃げ切れず、何千人もの人が溺れ死にした。津波が去った後には今まで住んでいた家屋も田畑に植えてあった作物も、人々の持ち物も、ほとんど何も残らなかった。その知らせを聞いて、小町も業平もびっくりした。陸奥の国で会った鎮守府将軍、御春峯能や出羽郡司、小野葛絵や衛門の命婦、茂子は大丈夫であろうかと心配した。小町は直ぐに業平の家来と一緒に雉丸を現地見舞いに派遣した。その後の知らせで、最大の被災地は陸奥の国と常陸の国の国境であると分かった。小町は出羽を始めとする小野家の縁者は、大きな被害を受けずに済んだとの雉丸からの報告を聞いて、ほっとした。

 

           〇

 貞観十二年(八七〇年)、在原業平の兄、行平は、清和天皇の更衣である娘、文子の後押しもあって、参議に列することになった。また同じ色好みの藤原敏行も大内記になった。業平は人が出世を喜ぶさまを見て、口にこそ出さなかったが、腹の内で笑っていた。そんな業平が、夏、宮中に出かけた時、高子の部屋の前を通り過がろうとすると、しばらく会っていなかった高子が、何を恨みに思ったのだろうか、業平を呼び止めて言った。

「かっての昔、死ぬ程、求めて下さった貴男なのに、最近は一体、どうしたのでしょう。私が嫌になったのでしょうか」

「そうは申されても、貴女は今や、やんごとなき人」

「冷たいわね。でも良いわ。貴男は最近、私のことを忘れて、他の女と夏草のように繁り交わっておりますが、いずれ草葉のように霜枯れて行く宿命なんですから。私はそれを冷ややかに見ていることにするわ」

 業平は、そんな恨みごとを言う高子を可哀想に思い、そっと高子の部屋に忍び込み、高子を抱いてやり、優しく注意した。

「罪もない潔白な人に、そんな呪いをかけると、忘れ草が呪われた人の上に生えて、やがて貴女自身が、忘れられることになりますよ。私は永遠に貴女のことを忘れはしないから、今日のようなことは言わないで下さい」

 高子は、それを聞いて辛く思った。高子は最近、自分と業平の子である貞明親王の面影が、業平にとても似て来たなどと、こっそり喋ったりした。業平は、小町が雲隠れなどせず、あのまま宮中に残っていてくれたなら、清和天皇に寵愛され、高子をもっと自分の自由にすることが出来たであろうにと思った。

 

          〇

 その小町は四の宮、人康親王と巡り合い、人康親王の優しさに触れ、人康親王との愛を深めて行った。小町は時々、山科の宮の御殿を訪ねた。また人康親王も盲目であるというのに、時には小町の住む小野の里まで忍んで来てくれた。

  浅じゆうの 小野のしのはら 忍ぶとも

  人知るらめや いふ人なしに

 小町も、そんな人康親王に歌を送った。人康親王と恋の歌を交わしていると、心が躍った。人前では疼きを隠し、禁欲を共有し、陰では深い愛欲に溺れる。何ということか。

  うつつには さこそもあらめ 夢にさへ

  人目つつむと 見るがわびしき

 

  露に似て はかなきものは 朝夕に

  いきたる限り あひみてしがな

  

  はかなくも 枕さだめず 明かすかな

  夢がたりせし 人を待つとて

 

  かぎりなき 思ひのままに 夜も来む

  夢路をさへに 人はとがめじ

 小町の人康親王に寄せる恋心は、一歌、詠ずるごとに、益々、灼熱化して行った。このように激しい思いになったのは、伴中庸を失ってから、初めてのことであった。小町は都に戻り、自分はかってのように燃えているのだと思った。そんな小町に反して、人康親王は哀れな歌を、お詠みになられたりした。

  あしたづの 雲井の中に まじりなば

  霞まむ方を 哀れともみよ

 それは〈私が死んで、鳥野辺の煙となって、大空の雲の中に消え失せたなら、私のことを思って霞んでいる大空の彼方を時々、哀れんで眺めてやって欲しい〉という意味の歌であった。それは小町との激しい愛欲の繰り返しに、自分の体力が追いついて行けず、自分が永遠で無いことを悟っての歌のようでもあった。

 

          〇

 貞観十三年(八七一年)九月、小野小町中納言源融の六条河原院の月見の宴に招かれた。その月の美しい夜に招かれたのは、在原業平素性法師菅原道真大江千里といったメンバーであった。あの人、この人が月を愛でて、多くの歌を詠んだ。素性法師はこう詠んだ。

   木の間より もりくる月の 影みれば

   心づくしの 秋は来にけり

 続いて少内記、菅原道真が歌った。

   海ならず たたへる水の そこまでも

   清き心は 月ぞ てらさむ

 主人である大納言、源融はこう詠んだ。

   白雲に 羽根うちかはし 飛ぶ雁の

   数さえ見ゆる 秋の夜の月

 また業平の甥である大江千里も、若いながら立派に歌った。

   月みれば ちじにものこそ 悲しけれ

   わが身ひとつの 秋には あらねど

『月に寄する詠歌』は誰のものもみな素晴らしかった。中納言の企画した秋の夜の月見の宴は、実に甘美で、歌人たちの心を、うっとりとさせた。小野小町も多くの男たちの間に混ざって歌を詠んだ。

  秋の月 いかなるものぞ わが心

  何ともなきに いねがてにする

 ところが招かれた歌人たちの中で、一人だけ歌を詠まずに、ただ物思いに耽っている男がいた。在原業平である。彼は秋の夜の月見の宴の席に酩酊しながら、人生の哀愁を静かに味わっていた。こうして毎年、毎年、清らかな月を賞美するたび、自分は年老い、やがては死んで行く運命にあるのだ。そんな過去を追想し、明日を予想している業平を見て、歌の友、源融は、業平の肩をぽんと叩いて詠歌を求めた。

「一つ歌ってくれまいか」

 すると業平は頷き、呟くように歌った。

  おほかたは 月をもめでじ これぞこの

  つもれば人の 老ひとなるもの

 その業平の歌に、一同、しいんと静まりかえった。小町は、これぞ業平の歌の技巧の旨さであると思った。そして益々、業平への尊敬の念を深めた。そんな宴の終わり近くなって、小町は素性法師に声をかけられた。小野の里まで、一緒に帰ろうというのであった。そこで小町は酒宴が終わる前に自分は六条河原院の対屋で、待っているからと、素性法師に約束した。

  長月の 在明の月のありつつも

  君し来まさば 待ちこそはせめ

 ところが愚かなるは素性法師。月見の宴が終わってからの男たちだけの酒宴で大酒し過ぎて、うっかり小町と約束した待ち合わせ場所を忘れてしまった。しかし、小町と約束したことだけは覚えていた。彼は酒宴が終わると、多分、待ち合わせ場所は、六条河原院の正門前であった筈だと、寒い中、六条河原院の正門前に駈けて行った。しかし小町は一向に現れなかった。それもその筈。小町は六条河原院の対屋の一室で、『竹取物語』を読み直しながら、素性を待っていた。何時まで待っても小町が現れないので、素性法師は、冷え冷えとした身体を震わせて詠んだ。

  今こんと いひしばかりに 長月の

  ありあけの月を まちいでつるかな

 哀れな話である。折角、うまく行きそうになったのに、素性法師は、ちょっとした酒の為に、久しぶりに小野小町と、夜の戯れをすることが、出来なかった。

 

          〇

 清和天皇は、都に戻った小町の様子を噂に聞くと、心動かされたが、側近や女御たちの監視が厳しく、宮中から抜け出すことが出来なかった。盲目の人康親王との恋など耳にすると、居ても立ってもいられなくなった。そんな時、更衣、文子の所へ行き、小町を呼び寄せるよう、お願いするが、文子は小町は女でないので諦めるようにと清和天皇を説得した。だがその小町はもう完全に女を取り戻していた。人康親王との情交は信じられない程、頻繁に行われた。二人の痴態、狂態はあさましく貪欲であった。人康親王は全精力を小町に注いだ。それは人康親王の下男、蝉丸も呆れる程であった。人康親王は、蝉丸の名をかたって小町に歌を送った。

  これやこの 行くも帰るも 別れては

  知るも知らぬも 相坂の関

 

  忍び寝の かかる恋路に 入りそめて

  身のほど知らぬ 我れを恨むる

 小町もまた、それに応じた。女の喜び。それは身体ごと愛されることであった。

  意地悪ろし 幾たびゆけば をさまるや

  恋路の果てを 知るよしもがな

 この凄まじいばかりの情交の行為と喜悦は当然のことながら、四十歳過ぎの病弱な人康親王の健康を害さない訳が無かった。人康親王は小町と会うたびに痩せ細って行った。

 

          〇

 貞観十四年(八七二年)五月五日、仁明天皇の第四皇子、山科の禅師の宮、人康親王が逝去した。人康親王の逝去を知ると、多くの人々が嘆き悲しんだ。中でも小野小町の悲嘆哀号は限りなく、形容するにも、それに相応しい言葉が無かった。小町は哀しみを歌った。

  亡き人の 宿に通はば ほととぎす

  かねてねにのみ なくとつげなむ

 

  今朝よりは 悲しき宮の 山風や

  また逢ふことも あらじと思へば

 小町は哀しみの程を一度に、どっと吐き出すが為に、沢山の歌を詠んだ。中でも人康親王の辞世の心を思いやって詠んだ追悼の長歌は、悲愁切々として、多くの人の胸を打った。

ーあしたづの雲井のなかにまじりなば、などと言ひて失せたる人のあはれなるを詠むー

 久方の 空に棚引く 浮雲

 うけるわが身は つゆ草の

 露の命も また消えて

 思ふことのみ まろこ草 しげきぞまさる

 あら玉の 行く年月は 春の日の

 花のにほひも 夏の日の 木の下陰も

 秋の夜の 月の光も 冬の夜の

 しぐれの音も 世の中の 恋も別れも

 憂きことも つらきも知れる わが身こそ

 心にしみて袖の浦 

 ひる時もなくあはれなれ

 かくのみ 常に思ひつつ いきの松原

 いきたるに ながらの橋の ながらへて

 瀬に居るたづの 鳴きわたり

 浦こぐ舟の ぬれわたり

 いつか浮世の国たのみ

 我身駈けつつ かけ離れ

 いつか恋しき 雲の上の 人に逢ひみて

 この世には 思ふことなき 

 身とはなるべき

 この長歌を現代風に訳すと、凡そ、こんな内容であろうか。

〈久方の空に棚引く雲のように浮いている私は、露のように儚く、四十歳ちょっとの若さで、貴男様が御隠れしたが為に、切なさのつのる毎日を送っております。貴男様と過ごして来た年月に於ける春の日の花の匂いも、夏の日の木陰の色も、秋の夜の月の光も、冬の夜の時雨の音も、また世の中の恋も、別れも、憂きことも、辛いことも、その総てを、私のこの身は知り尽くしております。それらの総ての思い出が今、浪のように押し寄せ、心にしみて、その涙で袖の乾く暇も無い、自分が哀れでなりません。このように絶えず嘆き続け生きながらえ、瀬にいる鶴のように鳴き渡り、浦こぐ舟のように涙に濡れ続け、一体、私は何時になったら、この浮世の民である身から、かけ離れることが出来るのでしょう。何時になったら雲の上にいる恋しい貴男様と巡り逢い、この世を嘆くことの無い身となれるのでしょう〉

 この小町の人康親王追悼の長歌を聞いて、死んでからの世界への無限なる憧れを、胸の奥深くに抱き続けている小町の心情に、誰もが心を絞め付けられ、涙して泣いた。
 

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かぎりなき 思ひのままに 夜もこむ 夢路をさへに 人はとがめじ