幻の花 ~ 第二十六章 つれづれ小町 

 元慶五年(八八一年)の正月は、昨年末の清和帝崩御により、何とも晴れ晴れしない年始となった。山科の小野の里の小町の屋敷も、召使の数が少なくなり、庭の雪かきもままならず、近づく人も減り、小町にはすることも無く、寂しく心細い日々の始まりとなった。また少年、陽成天皇にとっても、辛い年の始まりだった。陽成天皇は、母、高子以上に、清和帝や在原業平を亡くして悲しんでいる在原文子を見て、気の毒に思った。幼い時から自分を可愛がり、我が子のように優しく親切にしてくれている美しい人が、毎日、嘆き悲しんでいるのを見るのは辛かった。でも元気になってもらおうと、陽成天皇は時々、文子の所に様子伺いに訪問した。そのうち文子も明るくなり、陽成天皇といろんな話をするようになった。陽成天皇は或る日、自分の疑問に思っていることを、文子に質問してみた。

「私は帝としてあらゆる人から尊敬されていますが、何故ですか」

 すると文子は優しく微笑して、陽成天皇に答えた。

「それは高貴なお生まれだからです」

「何故、高貴なのですか」

「それはこの国の為に善政をなされて来た累代の天皇様方の御血を引き継いでおいでだからです」

「だからといって、他の者と同じように、私が働かなくて良いということが、あって良いのですか」

「御自身では、お分かりにならないと思いますが、帝が御健康でおいであること、そのことが帝のお仕事なのです」

「しかし働きもしないのに食べて行けることは納得し難いです。何故、私は働かないのに生きて行けるのですか?」

 陽成天皇の問いに文子は困惑した。この追及して来る探求心は、ものごとに敏感な賢人の素質を既に表出していると見えた。文子は優秀な陽成天皇に、こう返答した。

「それは民草が、捧げ物をしてくれるからです。民草は尊敬する帝に捧げる為に、日夜、汗水流し、食糧や織物の材料などの収穫に精出しております。それを帝や帝にお仕えする私たちは頂戴しているのです」

「ということは、私は国を治める帝でありながら、民草から施しを受けているというのですか」

「その通りです。ですから私たち内裏で暮らす者は、その米、一粒一粒を大切に、有難く感謝していただかねばなりません」

 文子の教えは若い陽成天皇の心を打った。疑問に思っていたことが、理解出来た。だが疑問が残った。施しを受けている者が、綺麗な衣を着て、威張っていて、施しをしてくれる者が、ボロの着物を着て、頭を下げる世の中は間違っているのではないか。それにしても、在原文子は、陽成天皇にとって素晴らしい人であった。彼女といると、今まで知らなかったことを教えて貰えるし、一緒にいるのが楽しかった。美しいばかりか、その接する心は、母よりも優しかった。陽成天皇は年上の在原文子を恋慕しながら日々を過ごした。在原文子は陽成天皇の初恋の人であった。そんなであるから、陽成天皇の母、高子は、業平の姪、文子の重用を考えた。その噂は小町の所にも届いた。小町はもしかしたら、自分が文子の付き人として再び採用されるのではないかと、秘かに期待した。

 

          〇

 七月初めの或る日の朝、陽成天皇は源益や藤原時平と計画して、こっそり宮中を抜け出し、徒歩で遠くの村まで遊びに出かけることにした。目的は源益の母、紀全子の実家に行って桃の実を取って、たらふく食べようという些細な戯れであった。仲良し三人組は、鼻歌を唄いながら紀全子の実家に向かった。その途中の村で陽成天皇たちは、橋の下から這い出して来る大人や子供を目にした。見ると髪はバサバサ、顔は汚れ、着物はボロボロで、誰もが痩せ細っていた。彼らは手に手に木をくりぬいて作ったのか、泥を練って作ったのか分からぬ椀を持って、村の中心部へ向かっていた。三人は何事が始まるのだろうかと、その後について行った。やがて彼らは、とある屋敷の前で列を正しく作って並んだ。そして広場に置かれた大きな鍋で炊かれた粥を椀に入れてもらうところであった。陽成天皇は、友の二人に訊いた。

「彼らは何をしているのじゃ?」

「施しを受けているのです」

 最年長の源益が知ったかぶりをして答えた。すると陽成天皇は不愉快な顔をした。

「そんなことは分かっている。何故、こんなことになっているのかを訊いているのじゃ」

「彼らは貧しいからです」

「何故、彼らは貧しいのか」

「昨年、収穫が少なかったからです」

 源益は平然と答えた。その益の先輩面した当たり前の答えが、陽成天皇には気に食わなかった。そんなことは分かっている。求めているのは、何故、こんな方法で配給することになっているのかであった。陽成天皇は屋敷の前で粥の配給を指示している男に質問した。

「何故、この者たちに粥を配給しているのか」

 質問された男は一瞬、いぶかしい顔をしたが、三人の身なりから高貴な家柄の子息たちと判断したのであろう、丁寧に答えてくれた。

「この者たちは、昨年の天候不順により、穀物が不作だった為、自分たちの食べる米も麦も無いのです。その上、税が高く、他の食べ物を買う銭も持っておりません。従って我ら長者の家から施しを受けるしか、生きて行く方法が無いのです」

「国を治める掾たちからの配給は無いのですか?」

「今、掾に集まる食料は以前のように多くはありません。ですから掾が、この者たちに緊急時の対応をしたくとも、それをしてやることが出来ないのです」

「何故、掾に集まる食料が少なくなったのですか」

「それは私には申せません」

 長者の家の男は困った顔をした。陽成天皇はこれ以上、この者に質問しては、自分たちの身分が露見する恐れがあるので、それ以上、質問せず、その場を離れた。そして源益の実家、紀友則の家に行き、たわわに実った桃の実を、沢山いただいた。

 

          〇

 陽成天皇は内裏に戻った翌日、侍読、橘広相を召して、昨日、こっそり見て来た村の様子を広相に語った。そして何故、あのような貧窮者がいるのか、広相に訊ねた。広相は庶民の生活に興味を持つ陽成天皇に対し、喜びに満ち溢れた表情で答えた。

「それは貴族が、律令を蔑ろにしているからです」

律令を蔑ろに」

「はい。律令には荘園を作ることなど、一つも記されておりません。荘園に編入された民は、自分の土地が無いのですから、税を納める義務責任がありません。今、考えなければならないのは、律令の基本精神に戻り、決められた収穫物や製造物の一部を税として国庫に納めさせるべきです。さすれば、国庫に備蓄物を増やすことが出来、災害飢饉等の緊急時に、国守を通じ、地区の掾が、備蓄物を分配出来るのです」

「ということは、荘園がまずいのか」

「はい。原因は飢饉の時、税から逃れようとする者が、有力貴族の庇護を頼りに、自分の土地を貴族の荘園の一部として売ってしまい、手放すからです。それまで土地を所有していたが為に、税を課され、苦しんで来た者が、税を払わずに荘園の使用人として土地を耕していれば、税に悩むことも無く、生きて行けるからです。貴族に納める年貢は律令に較べれば少なくて済むので、そういった考えの民が増えているのです。従って貴族の所有する荘園が拡大しているのです」

「成程」

「ご存知の通り、もともと貴族の税などというものは、有って無きが如しです。従って、貴族の荘園は増え、国庫への税は減少する一方です。喜ぶのは荘園を持つ貴族です。これらの甘い汁を吸う貴族が、個人資産を増やす為、荘園を拡大しているのが、問題なのです」

「それでは民の税を減らし、貴族らの荘園にも民と同じ税を課すことにすれば良いのか」

「はい。そうすれば、民も国も豊かになり、本朝は益々、栄えることになります。律令が正しいのに、それに従って政治を行っていないことが、大問題なのです」

 陽成天皇は、この橘広相の説明を聞き、納得した。そして苦しむ民を救う為に、若き力で政治改革を行い、より安定した理想の国家を構築しようと考えた。また陽成天皇は、昨年末の清和帝崩御による恩赦令を出し、沢山の罪人たちを放免することにした。その恩赦令は遠い隠岐国まで及んだ。七月十三日、隠岐国司、伴夏雄は、かって応天門事件により、この地に配流されていた伴中庸、伴元孫、伴禅師麻呂放免の通達を出して、彼らを帰洛させることにした。その伴中庸らが因幡国まで来た時、因幡介、従五位下、是主王は、その伴中庸を見て、中庸が偽者、善足であることに気づいた。是主王は、その偽者、中庸を帰洛させることを恐れ、伴夏雄の息子、伴有世と相談し、手違いとして、彼ら一族を因幡国に留め置くことにした。最もな話である。伴中庸は、小野小町を追って出羽に赴き、十三年前、既に、出羽の地で亡くなっていたのである。小町は中庸の弟、善足が帰京されることを願っていたのに、その帰京が中断されたと知って悲しんだ。

 

          〇

 小町にとって何もかもがうまくいかなかった。小野の里に来てくれる人たちも途絶え、成すすべもなく、手持無沙汰のつれづれの毎日が続いた。昔を振り返ればやるせない思い出ばかり。笛など吹いて悲しみをまぎらわそうとしても、屋敷に棲む蛇たちも冬眠をしようと,侘び住まいに顔をみせようとはしない。心の平穏を守ろうとするものの寂しさがつのり、心が沈むばかり。歌を交わす友もいない。歌を詠もうとする気力も無くなって、途方に暮れる日々。悲しみにうちひしがれている小町を、雉丸やその女房たちが励まそうとするが、一向に元気になってくれない。訪ねて来る男がいなくなったら衣装や化粧も、どうでも良くなり、全く俗世への思慕を失いかけている小町だった。そんな小町を雉丸夫婦は最後の最後まで面倒をみようとつき従った。

 

          〇

 元慶六年(八八二年)正月二日、陽成天皇とその弟君、貞保親王元服の式が、紫宸殿に於いて執り行われた。国母、高子を始め、沢山の公卿百官の見守る中、少年兄弟は、太政大臣藤原基経より、頭に成人の戴冠をしてもらった。そして同月七日には、参議以上の上卿より、それぞれ元服の祝辞を奉呈してもらった。この元服を機に太政大臣、基経は、自分の娘、佳美子または温子を入内させようとしたが、陽成天皇の母、高子は、母親の生まれが良くないなどと屁理屈をつけ、それを拒否した。基経も妹、高子の希望する在原文子の重用に反対した。養父、良房に似て狡猾な兄、基経と、直情的で逞しい妹、高子の対立は、この頃から始まった。母、高子は可愛い陽成天皇の後ろ盾になり、若き我が子が、天皇親政を開始することを願った。また英明な陽成天皇自身も、元服を機に、今まで心に秘めて来た国政改革への思いを実現しようと考えていた。旧来の悪習を撤廃し、摂政を廃止し、天皇中心の政治を実行しようと思い立った。陽成天皇は一ヶ月後、今まで出席したことの無い朝議に出席した。これには政治の実権を握る太政大臣藤原基経も慌てた。自分がいくら摂政だといっても、陽成天皇に対しては、一臣下に過ぎない。この陽成天皇の朝議参加は、公卿百官に驚きをもって迎えられたが、その意味するところが何であるか、陽成天皇の御言葉により、誰でもが直ぐに察知した。陽成天皇は公卿百官を目の前にして、自分の考えを仰せになられた。

「本日の朝議にて一同に伝えたいことが二つある。その一つは朝廷の財源不足解消策である。今の朝廷は民が困窮しているのに、それを救済することも出来ない程の財源不足に陥っている。その原因は、富士山の噴火、各地での地震、台風豪雨による洪水や山崩れ、天候不順による凶作、全国に広がる疫病、蝦夷俘囚の反乱、異国からの侵略などの対策の為に、かって備蓄して来た財源のほとんどを支出してしまったことにある。その上、朝廷に納められるべき税収が、以前より低下していることが重なっている。これでは民が元気で働ける為の生活向上を進めてやることも出来ないし、われら貴族も豊かな暮らしを続けることは出来ない。それを解消する為には、朝廷の財源を増やすことである。では如何にすれば税収を増やすことが出来ると思うか?」

 陽成天皇は目の前にいる公卿百官に問うた。しかし誰も答える者はいなかった。陽成天皇は、眼前で黙り込む者たちを睨みつけ、怒りの声を上げて仰せられた。

「それは律令に定めた税制に従い、総ての成人者に納税させることである。律令を生かし、民、一人一人に朝廷への負担を義務づけることである」

 その陽成天皇の言葉に、今まで黙っていた太政大臣、基経が異議を申し上げた。

「そうは仰せられても、律令で課せられた税を支払える者は僅かです。民の一人一人に税を支払わせるなどとは、難しいことです」

「それは一部の貴族や長者が、生活に苦しむ民から国が与えた土地を買い上げ、自分の荘園にしてしまっているからだ。そのやり方を解体し、元に戻せば良いではないか」

「何ということを。律令に従った結果の今の朝廷の財源不足ではありませんか。改めるのは律令の方です」

「それは可笑しなことを仰有る。己の私利私欲の為に荘園を拡大することは、国を治める者として恥ずかしきことぞ」

 陽成天皇は、基経の反論をぴしゃりと払い除けた。朝議の雰囲気は、誰もが律令通りの社会に戻そうという陽成天皇の考えに傾いた。

「従って、律令の精神に則り、太政大臣の提案を含め、貴族や長者にも、民と同じ税を課すよう律令を改め、律令の理想を実行する」

 陽成天皇の言葉に、誰かが賛同し、大声を上げた。

「異議なし」

 この決議に基経以外の総てが賛成した。基経の意見は無視され、基経は孤立した。続いて陽成天皇は一同に告げた。

「本日、伝えたい、もう一つは、朕の権限の行使についてである。朕が即位してから今日まで、太政大臣に摂政職として御苦労をいただいて来たが、朕が元服した今、他者に政治を任せること無く、朕自らが政治を執り行う考えでいることである。これから追々、出て来る諸件について、皆に相談をさせてもらうが、結論は朕が直接、判断し、指示を下すので、そのつもりでいて欲しい」

 この言葉を聞いて、誰もが絶句した。基経もこれには何も言えず、ただ黙り込むより仕方なかった。この時、誰もが基経の失脚を考えた。そして、ある者は藤原権力の失墜と考え、ある者は天皇親政への回帰と考え、ある者は自分たちの時代の到来と考え、ある者は理想を実現することを夢見た。家柄を頼りに太政大臣になった最高権力者、藤原基経の失脚は、やがて市井の噂となり、これからは有能な学者指導による輝かしい未来が期待されると、国民のほとんどが喜んだ。かくて若き陽成天皇の親政が開始した。

 

          〇

 しかし、かかる中央での権力争いは、地方においてはそれ程、大したことでは無かった。それより目の前の現実の方が大事だった。因幡介、是主王は昨年来、隠岐国から都に戻ろうとしていた伴善足とその一族を因幡国に留めていたが、年が改まったことから、どうするか決断せねばならなかった。結果、隠岐国の伴有世と相談し、彼らの処置を石見国への遷配に変更し、伴善足らを、石見国に送った。小町は、この話を伊豆から都に戻った伴善魚から聞いて、愚かな結果になってしまったと同情した。そして出羽国の桐木田館にいた時、落雷に撃たれて死去した善魚の兄、伴中庸のことを回想した。伴中庸。今にして思えば、小町にとって、彼もまた、一時、愛欲の蜜を吸って消えて行った一匹の蜜蜂でしかなかった。また自分も、それに応えた一つの花でしかなかった。

  己が身を この世のものに たとふれば

  暮れなばなげの 白き花かな

 

  つれづれと 眺め暮らせし 山里の

  しをるる花を 問ふ人も無し

 小町は全く希望を無くし、ぽっかりと胸に大きな穴が開いたような虚しさを覚えた。今の小町には、過去を振り返り、ここに至った斜陽の身を嘆きつつ、つれづれの日々を消日するしか生きるすべが無かった。

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つれづれと 眺め暮らせし 山里の しをるる花を 問ふ人も無し