幻の花 ~ 第二十九章 肥後の里小町

 光孝天皇の仁和元年(八八五年)正月、九州に入った小町と鴨丸は、筑紫国の宗像に立ち寄り、宗像神社の一つ、辺津宮に初詣した。それから那津にある『筑紫館』を訪ね、そこに宿泊させてもらった。この館は、その昔、小野の先祖、小野妹子が、隋の使者、裴世清と十二人を連れて随から帰国した時、使用した由緒ある館で、現在も外国使節の宿泊、饗応、あるいは遣唐使や貿易商人の活用の場になっているという説明を係官から受け、小町は改めて小野一族の偉大さを認識した。小野氏の先祖が関係して来た地方は、陸奥、出羽のみでなく、全国であることに驚いた。『筑紫館』で御世話になった後、小町と鴨丸は那津湾に注ぐ御笠川の上流にある大宰府に向かった。その大宰府は四王寺山と天拝山に挟まれた平地にあり、堂々とした正門と土塀に囲まれていた。正門を入ると左右に長い楼閣があり、その一番奥に大宰府長官の行政院があった。小町は、曽祖父、小野岑守が太宰大弐として、ここに赴任して活躍したという話を、かってここを通過した折、父、良実から聞いたことを思い出した。曽祖父、岑守はここで異国の使節遣唐使らと応接し、合せて、この地の防衛と統括に努めたのだ。大宰府の見学を終えた二人は、そこから小郡に抜けた。途中の山頂には城や沢山の見晴台などがあり、異国の侵攻を防衛する備えをしているのだと、つぶさに分かった。

 

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 その後、二人は小郡から八女を経て、小栗峠を越え、山鹿温泉で身を清め、小町の生誕の地、肥後国山本郡小野の里に辿り着いた。ここに至るまで、何と八ヶ月半もの、長旅であった。小野の里には小町の腹違いの兄、小野清里が一家を構えて暮らしていた。清里は父、良実が村の長者の娘に産ませた子で、良実が出羽から都に戻ったら、都に呼び寄せるつもりでいた小町の兄であった。幼い時、一緒に遊んだ沢山の思い出があった。清里は、日を重ねて遠い肥後にやって来た小町を、心から歓迎してくれた。清里の母、容子は小町を見るなり、感動し、涙を流した。容子にとって小町は我が子のようなものであった。小町は眼前で泣いて微笑む老婆が、自分の乳母であることを記憶していた。小町は清里と一緒に、この乳母の乳を飲んで育ったのである。容子は娘が欲しかったことから、小町を熱愛した。我が子、清里以上に小町を可愛がり、深い愛情を注いだ。そんなであるから、小野良実が都に戻る時には、小町を置いて行けと泣き叫んだ程だった。しかし小町の母、文屋秋津の娘、妙子は、それを許さなかった。容子はその別れの時の辛さ悲しさを思い出し、小町に長い間、待っていたと語った。小町は、そんな乳母と疎遠になっていた思いを歌に詠んだ。

  よそにこそ 峰の白雲と 思ひしに

  ふたりが中に はや立ちにけり

 それは、疎遠にしていた間に、年老いてしまった乳母に詫びる歌であった。小町は、こんなにも遠くの地にあって、自分の事を気にしてくれていた乳母に心から感謝した。

 

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 翌日になると、小町の噂を聞いた隣村の青年が訪ねて来た。何と彼は、小町が、若い時分に付き合いのあった小野貞樹の子で、小野芳樹と名乗った。芳樹が余りにも貞樹似ていることから、小町は彼に親しみを感じた。もし若かりしあの時、貞樹と一緒にこの肥後にやって来ていたなら、自分にも芳樹のような子を授かることが出来ただろうにと思った。

「私は父に連れられ、都に上がる予定でしたが、途中、長門国で父が運悪く倒れて亡くなり、都に上がることが叶いませんでした。その為、再びこの地に戻り、妻を娶り、母と一緒に暮らしております」

 芳樹は小野貞樹の哀れな最期を小町に詳しく語って聞かせた。小町は、またもや、かっての恋人の死を想像させられ、涙した。そして、ここに来る途中、長門国で小野吉村宅に厄介になり、貞樹の墓にお参りし、何度も供養したと、芳樹に伝えた。芳樹は父の憧れの人に会えて良かったと言って帰って行った。

 

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 小町は懐かしい梅の香りのする小野の里で、乳母、容子や兄、清里らに囲まれ、草庵を結び、仕合せな時を過ごした。乳母、容子に依頼され、歌を詠んだりした。

  冬去れば 梅が咲くなり 小野が里

  鶯鳴きて 春を寿ぐ

 また桜の咲く頃、既に清里によって建立されていた父、良実の墓近くに両親の供養塔を建て、日々、墓に向かって読経した。こうして肥後での時は、ゆるやかに流れた。小町は草庵近くの川原に、白い川原菊の花が美しく二輪、寄り添うように咲いているのを見て、姉、寵子や兄、清里らと遊んだ幼い頃の記憶を辿った。春には梅や桜の花が咲き、鶯やカエルが歌を唄った。夏には山が新緑から青葉に変わり、ツバメがやって来て田植えが始まり、蛍を追いかけたりした。暑い夏が過ぎ、秋になると稲穂が黄金に輝き、その収穫が終わると山々が紅葉して、赤く燃えるようだった。冬には野も山も真っ白な雪に覆われ、家の中で姉と栗の実を、食べたりして遊んで過ごした。そして新春になると、花の咲く時節を楽しみに待った。あの頃の自分は自分というものが無かった。おてんばの姉の後をついて近所の子供たちと遊び回るだけの子供であった。肥後の里での、花の香りや若葉の匂い、風のささやき、虫の音などを感じながらの昔を回想する小町の日々は穏やかに過ぎた。その頃、都では陽成天皇を退位させ、光孝天皇を即位させた藤原基経が、関白として、政務を思うがままに操っていた。基経は得意絶頂だった。

  敷島の 大和の国の 果てまでも

  枝を伸ばせよ 藤の紫

 だが基経の評判は肥後でも決して褒められたものでは無かった。養父、藤原良房から伝授された政権確保の陰謀は、世人の恐れ知るところであった。そんな時代の中で、かって小町と親密だった文屋康秀も死去した。また年末になり、菅原道真が讃岐に赴任するという噂が肥後にも届いた。このような知らせを聞くと、小町は、この地に長く留まっていられなかった。彼女は再び巡礼の旅に出て、都に戻ることにした。乳母、容子とは辛い別れとなった。小町が肥後の里から去ると知ると、多くの里人たちが小町との別れを惜しんで泣いた。

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冬去れば 梅が咲くなり 小野が里 鶯鳴きて 春を寿ぐ