幻の花 ~ 第三十四章 尼寺小町

 寛平七年(八九五年)秋、小町は鞍馬山の尼寺、如意山青蓮寺に戻った。住持の信法尼は小町が戻って来たので、とても喜んだ。小町は寺にある姿見の井戸で、寺から離れていた自分の顔を映し、骨と皮ばかりの痩せ衰えた自分の容姿を見て、びっくりした。関寺のあばら家での厳しい生活の中で、自分の容色が全く衰えてしまったことを確認し、身もだえする程に落胆した。もっとも、この時、小町は既に五十歳を過ぎていたのであるから、相当な姥桜になっていても仕方あるまい。小町は老いの悲しみを受け入れ、完全に女を捨てて、月心尼として念仏写経の毎日を送ることにした。そして時々、源融の『竹取物語』の写本を作成した。そんな小町の所に時折、歌を教えて欲しいと名家の女子がやって来たが、小町は歌は教えず、『竹取物語』の写本の手伝いをさせた。彼女たちは写本をしながら、『竹取物語』の世界に心ときめかせ、埋没した。それは女流文学の始まりともいえた。名家の女子の中には、菅原道真の三女、寧子もいた。彼女は両親の素質を受け継ぎ、利発で美麗で素直だった。寧子は『竹取物語』に夢中になり、宮中の話などを小町に質問してから、目を輝かせて小町に言った。

「私は衍子姉様のように、女御として宮中に上がりたいわ」

「内裏は、そんなに良い所では御座いませんよ。お好きな人の妻になるのが、女には一番良いのですよ」

 小町は笑って寧子に諭した。寧子が、それを理解したかどうかは、分からない。寧子を見ていると、まるで若い時の自分を見ているようであった。こんな小町の教育の仕方を知って、名家の子女や長者の娘たちが集まり、定期的に教義が催された。その為、信法尼たちは大変忙しくなった。教義の日、尼たちは本堂の外陣に長机、座卓、小机を集めて並べ、広蓋、硯、筆、墨、半紙などを用意しなければならなかった。だが人が沢山集まって来るということは、彼女たちにとっても嬉しいことであった。

 

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 寛平九年(八九七年)、その寧子は宇多天皇の第三皇子、斎世親王の妃となった。この御祝いの宴に、宇多天皇までもが、道真の東五条邸に御幸した。斎世親王の母は菅家と親しい橘広相の娘、義子で、道真の娘である寧子を実の娘のように可愛がってくれた。義子は数年前に亡くなった父、広相を苦しめた藤原氏を憎んでいた。彼女は、内裏の雅やかな女の世界にも対立があることを寧子に教えた。寧子は内裏に接して初めて、小町の言葉が真実であることを実感した。そして父、道真も厳しい男の権力世界の中で生きているのだと知った。その道真は、かって陽成天皇が考えていた中央集権による国家財政の確立に向かって邁進していた。それは天皇への権力集中であり、多くの所領を持つ藤原一門の者や有力貴族にとっては、何としても阻止せねばならぬことであった。六月八日、清和帝の兄で右大臣を務める源能有が亡くなった。その衝撃は宇多天皇は勿論のこと、菅原道真紀長谷雄らにとっても痛恨の極みであった。小町にとっても、四年前、関寺近くのあばら家にまで訪ねて来て、小町に都に戻らないかと説得してくれた、能有の死は残念なことであった。天皇親政を実現することを最優先に考えていた宇多天皇は、将来の天皇家のことを熟慮した。如何にすれば藤原良房の権力構造の流れから逃避出来るかに思考を巡らせた。そして到達したのが、昨年、失くした藤原胤子の子、敦仁親王を、一時も早く天皇にすることであった。藤原胤子の父は藤原高藤であり、同じ藤原氏でも、良房の流れとは縁遠くなっていた。七月三日、宇多天皇は、まだ三十一歳の壮齢であるというのに、十三歳の皇太子、敦仁親王に譲位した。この時、藤原時平の妹、温子は女御であったが、まだ皇子を儲けておらず、時平が父、基経同様、女子を用いて権勢を得ることは叶わなかった。新帝は醍醐天皇として即位した。引退した宇多上皇は七月十三日、藤原時平菅原道真を相並んで正三位に叙し、二人共に協力して新帝を援けるよう詔した。そして、翌寛平十年(八九八年)八月十六日、元号を寛平から昌泰と改元した。

 

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 昌泰二年(八九九年)二月十四日、藤原時平左大臣菅原道真が右大臣となった。この知らせを聞いて、小町は喜びはしたが、一抹の不安を抱いた。道真の今の輝きは、自分の若き時の栄耀栄華にも似ているような気がした。人生、ずっと輝きながら生きるのは難しい。昌泰三年(九〇〇年)、絶頂期の道真は自分の詩文を集めた『菅家文草』と祖父、清公と父、是善の作品集を、醍醐天皇に献上した。これに嫉妬した文章博士三善清行は、藤原時平の入れ知恵もあって、道真に忠告文を送った。

〈尊閤は一門の家集を帝に献上され、文人として最高の栄誉を得られたと、拝察いたします。これもひとえに尊閤のこれまでの不断の御精進の賜物であると、お慶び申し上げます。ところで来年は辛酉年となり、変革の年です。それ故、誰もが自分の運命を慎まなければなりません。尊閤におかれましても、学者から出世して大臣になり、最早、これ以上、望むものは無いものと存じます。そこで伏して願うのは、止足の分をわきまえ、職を辞して、風情をほしいままに楽しんで欲しいということです。そうしたならば誰もが、後生も尊閤を仰ぎ見て、尊ばれることでしょう。早く引退されるのが、賢明かと存じます〉

 この忠告文を読み、道真は三善清行が自分に取って代わろうとしているのを理解した。だが道真には、陽成帝から引き継いで来た天皇親政への実現を中途で、放り出す気にはなれなかった。その為、道真は嘲笑って、三善清行の勧告を相手にしなかった。

 

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 小町の不安は現実のものとなった。昌泰四年(九〇一年)正月二十五日、道真は突然、太宰権師に左遷させられることになった。その原因は左大臣藤原時平の讒訴によるものであった。時平は弟、忠平が止めるにも関わらず、三善清行と結託し、若い醍醐天皇に告げ口をした。

「道真は宇多上皇の女御である長女、衍子を使い、宇多上皇を説得し、帝の廃位を企んでおります。道真は自分の娘を嫁がせた帝の弟君、斎世親王皇位に就け、帝から皇位を簒奪しようと陰謀しております」

 それを聞き、何も分からぬ醍醐天皇は激怒した。

「なんじゃと。道真は、朕を退位させて、弟、斎世親王を帝に据えようと考えているのか!」

「はい。変革を止める三善清行の忠告を無視したとのことです」

「おのれ、道真。直ぐに道真を処罰せよ!」

 若い醍醐天皇は讒言をそのまま受け入れ、事が真実であるかも確認せず、宣命を下した。

〈右大臣、菅原朝臣は寒門より、にわかに大臣に採り立てられたのに、止足の分を知らず、専横の心あり。佞諂の情をもって上皇を欺き、廃立を行って、父子の慈を離間し、兄弟の愛をも破ろうとする。うわべの詞は穏やかなれど、心は逆さである。このことは天下の者、皆知るところである。故に大臣の位に置くべき人材では無い。法律に従い、断罪すべきであるが、特に思うところある故、大臣を辞めさせ、太宰権師に貶流する〉

 それは道真にとって、全く根も葉もない嫌疑であった。道真は自分が潔白であると奏上したが、幼帝は、弟の斎世親王の室が道真の娘、寧子であることから、道真が無実を訴えても納得しなかった。この左遷の宣命は、宇多上皇に全く知らせずに断行された。宇多天皇はこれを聞き、醍醐天皇に面会し、幼帝を叱責し、それを取り消させようとした。しかし醍醐天皇は、宇多上皇を内裏に入れず、面会を拒絶した。醍醐天皇藤原時平の命令に従い内裏の門前で宇多上皇の参内を阻止したのは、蔵人頭藤原菅根であった。

 

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 かくて道真は二月一日、都を離れ、大宰府に向かうことになった。また道真の任官している男子も、土佐、駿河、飛騨、播磨にと分散させられることになった。妻室、宣来子と年長の女子は家に残ったが、年少の男女は、道真と共に大宰府に連れて行かれることになった。自宅を去る時、道真は親友、紀長谷雄に家族のことを依頼した。道真の妻、宣来子が出立する道真に言った。

「留守中のことは、私が責任をもって対処しますので、安心してお出かけ下さい。いつまでも、お帰りをお待ちしてしております」

「そなたたちも達者でな」

「お父様!」

 衍子や寧子や尚子たち娘が、道真に走り寄り、ぼろぼろと涙を流した。道真は家族と仕合せに暮らして来た東五条邸に、主人がいなくなり、寂しくなることを想像すると辛かった。もうここも見納めになるかも知れぬ。道真は苦労して築いた自分の屋敷を眺めながら、別れの歌を詠んだ。

  東風吹かば にほひおこせよ 梅の花

  あるじなしとて 春を忘るな

 道真は同情する多くの人たちに見送られ、警固の者に囲まれ、大宰府に向かった。その姿を小町も見送った。小町は父、良実を出羽に見送った時のことや、伴中庸を隠岐に見送った時のことを思い出していた。旅立って行く道真のその姿は、何故か遠くへ運ばれて行くように感じられた。道真は途中、ある人のことを思い出して、また別の歌を詠んだ。

  君がすむ 宿の梢をゆくゆくと

  かくるるまでも かへりみしやな

 小町は道真の不運を嘆いた。誠実な人、道真が何故、不運に見舞われなければならなかったのか。自分の教え子、寧子の悲しみが胸が痛くなる程に伝わって来た。道真の娘、寧子を妻にしていた斎世親王も、翌日、仁和寺に入り、真寂と名乗り、欣求修行に励むこととなった。

 

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 菅原道真が都からいなくなると、小町は仏門にいながらも、心にぽっかりと大きな穴が開いたような虚しさに襲われた。かって小町が訪れたことのある大宰府で、道真が寂しく暮らしているかと思うと、そこへ訪ねて行ってみたいと思ったりした。しかし、あの頃は四十代の初め、今は六十代になろうとしている。最早、そのような体力も気力も無かった。その道真の大宰府での生活は惨めなものであった。彼は左遷された權師であったことから、大宰府政庁には一度も、登庁せず、在原業平の父、阿保親王が暮らしていたという空き家を整備し、そこで暮らした。一家は周囲の者から罪人扱いされ、予想以上の困窮する生活を余儀なくされた。七月十五日には昌泰の元号が延喜と改元された。道真を追い払い、朝廷の権力を一人占めにした藤原時平の世情刷新の為の船出の元号であった。時平は意欲的に政治改革に着手した。彼は陽成帝や道真の考えを取り入れ、荘園を沢山持つ権門勢家の頭領であったにもかかわらず、荘園整理令を発布した。また『日本三代実録』や『延喜式』の編纂を行うよう指示した。それは都から追放した政敵、菅原道真に笑われない為の真摯なる政治への取り組みでもあった。

 

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 延喜二年(九〇二年)、道真の娘たちが仏門に入った。彼女たちの母、宣来子が娘たちの安全な場所は仏門であると考えて、そうさせたのであろう。小町は仏門に入った道真の娘、衍子と寧子姉妹が青蓮寺に訪ねて来ると、彼女たちに菅家の状況を訊いた。すると姉の衍子が答えた。

「父のいなくなった留守宅は生活に苦しく、母、宣来子が庭木を売ったり、家の一部を人に貸したりして、何とか生活をしのいでおります」

「そのようなことまで、お考えになり、留守宅をお守りするお母様は、妻の鏡です」

 小町は道真の妻、宣来子の賢さと苦難にも負けぬ気丈さに感心した。次に寧子が道真の近況を語った。

大宰府に行ってからの父からの便りは、全く元気がありません。胃を悪くした上に、皮膚病と脚気に悩んでいるとのことで御座います」

「それは御心配なことですわね」

 小町は地方の不衛生な生活を想像した。自分自身、肥後への巡礼の折、皮膚病に悩まされた時のことが思い出された。そんな道真の噂を都でしている間、当の道真の環境はぐんぐん悪化していた。道真は望郷の思いにかられ、赦されて帰京出来ることを念じ続けたが、秋になって突然、配所に伴って来た息子、隈麿を失った。読書好きの子であった。道真は息子の悲運を嘆いた。人生は思い通りにならない。予期せぬことばかりが起こった。道真は落胆し、望みを失い、念仏、読経を行い、仏に帰依した。

 

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 延喜三年(九〇三年)正月、その道真は病が重くなり、子供たちに遺言した。

〈他国で死んだ者は遺骨を故郷に返すのを例とするが、自分はその事を願わない。自分は隈麿と一緒に、この地で眠る。吉祥院の十月の法華会は累代の家の事であるから、将来、絶やさぬように努めよ〉

 そして二月二十五日、道真は大宰府の地で、断腸の思いを秘めながら、寂し死んで行った。その日、都の東五条邸にいた道真の妻、宣来子は庭に咲いていた梅の花が、一晩にして、夫のいる大宰府の方に向かって一斉に吹き飛んで行くのを目にした。宣来子は、それを見て、夫がこの世から去ったと知った。それから半月後、小町は道真死去の知らせを受けて泣いた。

  泣く我の 落ちてぞたぎつ 涙川

  流るる水は 道を知るをや

 配所での道真の死は、小町の父、小野良実の任地での死にも似ていて、とても可哀想に思われた。小町は道真の死を悼み、仏に祈った。また失意の小町を心配して雉丸の息子、鴨丸がやって来ると、鴨丸にこんな歌を詠んで、自分の遺言とした。

  我死なば 焼くな埋めるな 野にさらせ

  痩せたる犬の 腹こやさせよ

 小町は、同年輩の道真の死によって、自分自身の死も間近になっていることを悟った。

 

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東風 吹かば にほひおこせよ 梅の花 

あるじなしとて 春を忘るな