大津皇子物語『朱鳥の悲劇』

「同人誌評」 3作品 石井富士弥

『讃岐文学』に「宿縁の将」(石原利男)があります。この作者は既に社会人として幾重畳の人生をおくられ功成り遂げ、悠々と宿願の文学に三昧境を求めているようですが、拡散不実態化した〈歴史小説〉も、こういう闊達な世界があったのだと、改めて思い起こさせられる自由な叙事詩を展開しています。趣味としての陽性の、主として物語体の古典文学に親しんだ作者の考証過多な既発表作を、今度は主人公、実盛の心情にしぼり、不遇な幼時の木曽義仲薫育の過程を、じっくり辿る企図らしく、既に保元ノ乱の件りまで書き進めた(その三)が、消耗的な近代文学に毒されない、かっての日本人的心情で、もののあわれを綴り来たり綴り去る手つきは、既篇とは人が変わったように作者の感情移入が行われています。エスプリの新旧を批評する前に、こういう自適を娯しむ種類の歴史小説もあって良いと思います。

『野路文学』(第二十一号)には≪故・三島由紀夫先生に捧ぐ≫という献詞のついた戯曲「朱鳥の悲劇」(吉田逍児)があります。天武十二年から持統元年に至る大津皇子事蹟を扱っていますが、幕数十三幕(大長編のようですが、実際はこれは場数と同じ程度の幕割りです)が、ちょうどラシーヌよりもコルネーユを連想させる古典悲劇調で進められます。作者の三島氏への関心のよせかたも分かるような気がしますが、絢爛たる三島ドラマのレトリックとは所詮、ぶが悪すぎます。作者自身に特異な才華があれば対照的に執筆意義も充分だったでしょうが、この限りでは、三島氏への理解レポートというところでしょうか?穏和な力量を充分豊かに富ませることを祈ります。

『座間文学』(第二号)では「暁の影」(二宮雄二)があります。文治二年、盛況の鎌倉と、飢饉に人心動揺の京都を対照的に並べ、西行と頼朝の交渉を描いて、部分的には鋭い作品ですが、結びはよいとしても、眼目の恬淡な西行、知性に憧憬する頼朝との対立が形どおりなのが、質を類型的にしています。短編でも枚数の使い方はあるようです。会話の部分を戯曲風にした工夫も、逆に平板になって成功していません。

 闊達な石原氏、詩的ロマネスクな吉田氏、形式主義の二宮氏。歴史小説は多様な感情移入があっていいでしょう。

  歴史読本 

           昭和50年(1975年)新年特別号

   歴読ジャーナル 同人誌評より

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二人ゆけど 行き過ぎがたき 秋山を 如何にか君が 独り越ゆらむ