風外禅師の生涯

 昔から「何々さん」という愛称で呼ばれて来た僧侶がいる。弘法さん、西行さん、一休さん、呑竜さん、良寛さん・・・・。これから語る風外慧薫を知る人は多分、風外をその一人に加えて、『風外さん』と呼んでいるに違いない。

 

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                                                  風外禅師の画像

 

■戦乱の世の出生

 戦国時代末期、足利義昭が十五代将軍になった永禄十一年(一五六八年)、風外は上州土塩村(松井田町)に生まれた。土塩村は群馬県の西端、長野との県境、碓氷峠に近い九十九川に沿った谷間にある。風外が川越で生まれ、十五歳の時、この土塩村に移ったという説もあるが、定かではない。彼の父、山口玄蕃が小田原大道寺駿河守政繁の家臣であった事からすれば、そんな推測もあり得る。天正十年(一五八二年)、北条の家臣、山口玄蕃は、松井田城を守る織田信長の家臣、津田小平次を追放し、松井田を北条の城とした。幼い主馬(風外)も、この戦いに参加し、活躍した。天正十八年(一五九〇年)、豊臣秀吉は、北条攻略に先立ち、前田利家上杉景勝真田昌幸をして、松井田城を攻めさせた。この時、山口親子は、城主、大道寺駿河守政繁と共に、あらゆる戦術を駆使して奮闘し、敵を散々、痛めつけ困らせた。ところが敵が土地の百姓から城内へに引水のあることを聞き出し、その水路を断ったことから、城中は飲料水に苦しみ、ついに落城した。山口主馬は政繁の末子、長松丸を連れて、丸久山乾窓寺に潜み、機を見て、早川六左衛門と共に、長松丸を逃亡させ、自らは寺に残り奮戦したが、敵に火を放たれ、炎の中に消えた。この戦いで山口主馬(二十三歳)は、残虐な武士の殺し合いを体験し、人間の命のはかなさと、この世の無常を知った。

 

■出家と旅立ち

 炎から脱出した主馬は、上後閑の長源寺(安中市)に至り、そこで剃髪し、風外と命名され、為景清春の弟子となった。それから師のすすめにより、北関東曹洞宗寺院で有名な子持村、双林寺(渋川市)に入り、秀道大逸らと机を並べ、修行研鑽に励んだ。ひとり座禅し、正念工夫を凝らし、黙考した。己れとは何か、人生とは、道とは?しかし悟りは得られなかった。江戸幕府が成立した慶長八年(一六〇三年)、三十六歳の時、風外は双林寺の堅苦しい組織の中で消日している己れに疑問を抱いた。寺の裏山に寝ころび、突き抜けるような青空を眺めながら、己れの人生を思った。白いひとひらの雲が眼にとまった。何処からかやって来て、何処かへと流れて行く。その白い雲は己れかも知れない。そう思っていた矢先、子持村の医者、山田天六が、娘を傷物にされたとして、双林寺に怒鳴り込んで来た。風外の悪事が露見し、寺の中は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。こうなっては言い訳するのも面倒臭い。風外は戸惑うことなく、寺をとび出した。

 

■一所不在、天衣無縫の旅

 かくして風外の放浪の旅、不羈奔放な生活が始まった。まずは厩橋、赤堀を経て、足利に向かった。風外は旅をしながら、裕福そうな家があると、その門口に立って経を唱え、食物や小銭の喜捨をもらった。日が暮れれば、親切な村人が、一夜の宿を提供してくれた。城下町に剣術の道場があれば、そこで軍学兵法を語り、剣術指南を行った。ある村で、盗人と間違われたこともあった。金龍寺(太田市)では、檀家から頼まれて絵筆をふるい、達磨図や布袋図を描いた。足利に至り、長林寺の居候を許され、そこに居住することになったが、庄屋の後家と親しくなり、噂となって追放された。寺を出た風外は酒を飲み、女郎を買い、喧嘩をした。かと思うと、子供たちと遊び、困っている人たちを助け、善男善女に説法逸話を語り、廃寺を見れば、村人に寄進を呼びかけ、寺院の修繕、墓地の整地を行い、自ら鍬をとり、荒地を耕すなど、猛牛のように働き、天応寺(佐野市)を復活させ、「流石、風外和尚!」と口にされる程の評判の名僧となった。そんな風外を、ただ者でないと大中寺大平町)の住職がみとめた。住職の勧誘によって大中寺に入ると、風外は、まるで人が変わったように、学問にうちこみ、猛烈な精進ぶりを見せた。住職の代わりに説教をつとめることもあった。慶長十二年(一六〇七年)、四十歳になった風外は、更に師を求め、臨済僧、物外紹播を慕い、宇都宮の興禅寺にでかけ、その法嗣、渭川周瀏に従い、下都賀大柿の竜興寺(都賀町)で、他派の体験を積んだ。風外の純禅を認め、渭川が風外に印可を与えようとすると、風外はこれを断った。そんな風外の風格を知って、寺を建て、風外を誘おうという者もあらわれた。中には風外の過去を知り、大阪との戦に備え、秀忠軍に参加させようとする者もいた。風外はそれを嫌い、寺を出、小山、結城、下妻、猿島等、諸方歴参、一所不在、天衣無縫、風狂外遊の末、岩槻に至り、芳林寺近くに庵を構え、「風外道人」と呼ばれるようになった。天和三年(一六一七年)、物外紹播の紹介により、鈴木正三という武士が風外を訪ねて来た。彼との問答の末、風外はさらに仏法を学ばねばならぬことを感じ、江戸に出た。時に風外、五十歳。鈴木正三の世話で神田駿河台の吉祥寺に掛錫し、南泉寺の大愚宗築の禅要を聞き、石川主殿頭の屋敷で愚堂東寔の『臨済録』を聞いたりした。元和五年(一六一九年)、鈴木正三が大阪城の勤番となり、江戸から離れるに当たり、風外もまた江戸を去ることになった。

 

■曽我の風外

 風外は高木主水頭の知る近藤秀用の小田原屋敷で正三と別れ、富士山の絵を描く為、相州曽我の地を訪れた。富士山の眺めの美しい内藤図書の屋敷の蔵に住まわせてもらい、絵画に専念した。そんな折、北条時代、旧知であった南条政道がやって来て、内藤図書と共に村の廃寺への入山を依頼した。一生に一度、一寺の住職になるのもまた修業と思い、風外は友の勧めに従い、空席であった成田村、成願寺の住職となった。風外の入山により、耕徳山成願寺は、庄屋、飯泉甚左衛門ら檀家の協力もあって、復興した。風外の説法と書画を得ようと、成願寺に沢山の人たちが訪れた。ところが、ことのはずみで、恋に破れて尼になりたいという庄屋の娘、お里と交わって、彼女を得度させ、蓮泉尼と名付け、彼女に世間と縁を切らせたことが問題となって、最乗寺から忠告を受けた。その為、風外は寺を穢したとして、寺を出、己れの求道の為、曽我山中にこもった。小田原藩主、阿部正次が風外の噂を聞いて使者を送ったが、その時、既に風外は寺を出ていた。風外は曽我山の中腹に洞窟を掘り、終日、壁に向かい、座禅をしていた。河野三太夫と内藤数馬がそこを訪ねたが、風外は面壁九年の修業中と云って、阿部正次のお召しを断った。絵に描いた達磨大師だけでは満足出来ず、面壁九年の修業の実践に挑む風外の勇猛心に、阿部正次は感心し、陰で援助を行うことにした。洞窟生活を送る風外には、相談者が後を絶たなかった。村人に頼まれ絵を描いたり、農耕の指導をしたり、眼の見えぬ二見仲兵衛を預かったりした。或る日、文道と名乗る若い僧が、風外窟にやって来た。風外は喜んで彼を迎えた。仲間になった印だと云って、盲の仲兵衛が髑髏に木の実を盛って差し出すと、文道は仰天し、絶叫して、ひっくり返った。それを見て、風外は大目玉をむいて、文道を叱りとばした。

「何ということか。われらと一緒に座禅する覚悟で、風外窟を訪れたのではなかったのか。僧が髑髏を見て腰を抜かすとは、全く呆れたものだ」

 文道は恐ろしさに、その場から走り去った。この時、仲兵衛は文道の絶叫の衝撃により、突然、物が見えるようになった。元和九年(一六二三年)、藩主、阿部正次は小田原から、武蔵国岩槻に転封することになり、再度、風外召しかかえの要請をした。しかし風外は達磨を思い、さらに面壁の修業を続けると云って、一切固辞して、それを受けなかった。

 

■故郷にて

 寛永五年(一六二八年)、面壁九年の修業を終えた風外禅師は、中島半蔵の依頼により、故郷上州土塩村へ帰った。双林寺で机を並べた秀道大逸が導師となって、あの炎上してしまった乾窓寺を、三ッ室山に再建しようというのだ。甘楽一之宮村、茂木半左衛門の内室(風外の妹)の寄進により、乾窓寺の再建は始まっていた。風外は村人たちの助けを借りながら、老骨に鞭うち、乾窓寺の襖絵や天井絵を描いた。そんな或る日、風外は土塩村の奥深くにある不動の滝を見に出かけた。その帰りのこと、風外は老婆に呼び止められた。

「お坊様。ここを通ったが何かの御縁。わが家の裏の墓地をお参りして行って下さい。さすれば、ここに眠れる人たちも、さらなる仕合せに恵まれましょう」

 裏の墓地に眠っているのは誰かと風外が質問すると、老婆は答えた。

「原田家の先祖の他、貴方様に良く似たお人の母親が眠っておられます。そのお人は川越寄騎の娘で、天正の昔、松井田城の山口主馬さまをお尋ねして、この村に来られたのですが、当の主馬さまは豊臣との戦乱で亡くなられ、そのお人が土塩村に辿り着いた時には、既にこの世の人ではありませんでした。そのお人は余りの衝撃に、食事も口に入らず、ついには倒れ伏し、病の床で男の子を産み落とし、そのまま死んでしまわれました。生まれたばかりの赤子は、亡くなった母親の死体にとりつき、その乳房をしゃぶり続けました。それを見て、私はいたたまれなくなり、その子を死体から奪い取り、自分の乳首を子供に含ませてやりました。すると、どうでしょう。子供に求められると、不思議にも私の乳房から、いっぱいに、お乳が溢れ出ました」

 風外は老婆の話を黙って聞いていた。

「その母親の死体を私と夫で裏の墓地に埋葬してやりました。そして、その子供を十二年間、我が子として育て、その後、長源寺の秀道和尚が自分の弟子にと求められたものですから、手放しました。それから十年程して、子供がやって来ました。立派な僧となり、秀尊と名乗り、双林寺に移ると挨拶に来ました。その時の子供の姿と、貴方様の姿、格好が、とても似ていらっしゃいましたものですから、何かの縁と思い、声をおかけしました」

 風外は老婆に導かれ、原田家の墓地にお参りした。風外と蓮泉尼の読経に、老婆は涙を流して喜んだ。風外は複雑な気持ちだった。無常感を抱いて、武士を、家を、妻子を捨てた昔が思い出された。翌年、三ッ室山乾窓寺が再建され、その落慶供養が終わると、風外は故郷を去った。

 

■真鶴の風外

 小田原に戻った風外は、曽我山中にて絵を描いたり、詩文を創ったり、それを百姓たちに与え、洞窟生活を楽しんだ。そんな風外を慕い相見を願う者が増えた。風外はそれを煩わしく思い、再び旅に出た。寛永七年(一六七〇年)、風外、六十三歳の時であった。小田原、根府川を経て、真鶴に至った時、風外は村人に念仏を依頼された。網元、五味伊右衛門が、死者の葬送に読経する僧がおらず困っていた。石切り場の奉行、小河織部正良が岩場から足を踏み外し、海に落ちて死んだということであった。柩に向かい風外が舎利礼文を三度唱え、喝を入れると、死者が蘇生した。村人たちは驚き、風外を崇め、風外の逗留を願った。風外は網元、五味伊右衛門の願いにより、五味家の菩提寺、水上山自泉院の裏山に居住することになった。天神堂に住み、絵を描き、石像を彫り、三ッ石に弁財天を祭り、貴船神社縁起を書くなど、村の振興に努めた。伊豆半島地震の折には、五味伊右衛門、青木太兵衛らと協力し、地震による負傷者救済、家屋の再築など、真鶴の復興に尽力した。そんな風外の所へ、小田原稲葉家の家老、田辺信吉、吉利支丹信者、奥住新左衛門、かっての主人、大道寺直次、水戸中納言頼房、旧友、鈴木正三が訪ねて来たりした。風外八十歳の正保四年(一六四七年)五月、小田原に大地震が起こり、小田原をはじめ、藩内の神社仏閣の屋根は勿論のこと、石垣や建物が、地震の為に崩れ落ちた。真鶴にいる風外のもてへ、大雄山最乗寺から、善開大徳と鉄牛慧覚が最乗寺修復の依頼にやって来た。風外は善開と鉄牛が襖絵や天井絵を描くための手伝いなら、小田原へ行っても良いと返答し、十七年間滞在した真鶴を去った。

 

■入生田の風外

 再び小田原に戻った風外は、最乗寺の襖絵や天井絵の仕事を終えると、入生田村の牛臥山の洞窟に居住した。村人たちと絵と米を取り換えるなどして、地域との交流を深めた。風外の噂を聞いた時の城主、稲葉正則は、鉄牛を案内人として、梅原武主と共に、風外を牛臥山に訪ねた。牛臥山の中腹からは、青い相模の海が眺望出来た。春の訪れに小鳥たちが嬉々とさえずり、渓流が美しい音色を奏でていた。鉄牛が風外に話しかけた。

「このように世を離れ、静寂を旨として修業されている風外様を、鉄牛は真実、羨ましく思います」

 それに対し風外が答えた。

「鉄牛よ。遁世などというものは容易なものじゃ。家を出て出家することは、決して難しいことではない。大方の僧は頭を丸め、僧衣をまとっているものの、在家の人間より、心の内が劣っている者が多い。まことに嘆かわしいことである。世は一面、捨て難いものであるが、僧たるもの、それを身をもって捨てねばならぬ。故に難しいのは、出家した後、寺を出ることである。楊岐派の応庵和尚が、〈僧たる者は草履をはいたまま住院しなければならない〉と云っているが、そうあらねばならぬ。折角、一念発起し、仏の弟子となっても、蛇が窟を慕い、そこから離れられないように、太陽の光も浴びず、寺院や御殿の大建築の中で消日している連中は、まことの僧とは云えぬ。俗士から秋風が立っても、泥巣から離れられない未熟な燕と笑われてならない。鉄牛も折を見て、寺を出、仏道を極めよ」

「ならば風外様。鉄牛を弟子にして下さい。お願いします」

天上天下唯我独尊。仏の弟子になったからには天涯孤独。仏以外に師はない。孤独こそが仏の道である。風外は生涯、弟子を持とうなどとは思わぬ」

 今まで黙っていた正則が風外に質問した。

「風外様。あなたは名を馳せ、弟子を持ち、経典を説き、寺を建て、大伽藍のうちに生きようとは、お思いになりませんか。あなたは一体、何の為に生きておられるのですか?」

「私はあるがままに生き、あるがままにある。人生は絶えず死と一緒である。私にとって、、死の無い生は無く、生の無い死も無い。ただ風のように過ぎ去ることが、私の人生である。恐れるものは何も無い。名誉も富貴も権力も、風外には全く関わりの無いことでござる」

 これが禅僧というものなのか。正則は風外の思想を知り、彼に深く傾倒した。世俗を超越した風外に、正則は惚れ込んだ。早速、風外を城に招こうと考えた。桜の季節、風外は、その正則に召され城に上がった。ところが正則は臣妾をあげて観桜の宴を行い、長い間、風外を待たせ、何時になっても、風外の待つ部屋に現れなかった。風外は正則が約束の刻限を守らなかったので立腹した。厠へ行くと云って突然、退出し、厠の扉に書置きを張り付けた。

  太守一国鎮 我是風外身

  卒客無卒主 宜仮不宣真

 忠告文を書き残すと、風外は城外に消えた。ほろ酔い気分で城に戻った正則は、その忠告文を見て、己れを深く反省した。正則の下臣、鈴木久種、内藤数馬、今泉太左衛門らが風外を捜しに、真鶴、曽我は勿論のこと、箱根、足柄、丹沢、大山等に足を運んだが、その行先は判らなかった。正則は近臣、今泉太左衛門に命じ、風外が起居していた真鶴の天神堂から、父母の石像二体と破れ鍋を小田原城に持ち帰らせ、朝夕、風外を敬慕し、それを拝んだ。

 

■晩年の旅、そして死

 小田原を去った風外は厳しい関所を掻い潜り、箱根を越え、伊豆山中に辿り着き、ほっとした油断から、谷に転落し負傷した。動けなくなった風外を、山で剣術の稽古をしていた天野小源太、小平次兄弟が助けた。風外はこの二人に恩義が生まれ、近くの洞窟を住処として、二人に文武を教えることになった。天野兄弟が乞食坊主と剣術の稽古をしていることが噂になると、もしや風外禅師ではなかろうかと、北条壇信は伊豆山に使者を送り、風外を捜し当て、西伊豆の北条館に招いた。壇信は文人館『竹渓院』を建て、風外をそこに住まわせた。慶安四年(一六五一年)、風外が文武を教えた天野兄弟は由比正雪の幕府転覆計画に加わった。二人のことが心配になった風外は、北条壇信と蓮泉尼に別れを告げ、伊豆原木村から、西方へ行くと云って旅立った。風外が駿河に着いた時には、既に天野兄弟は斬首されていて、羽鳥村の洞慶院にて、母親によって、埋葬されていた。風外は落胆し、あてもなく彷徨した。掛川に至り、狩野探幽と久隅守景にめぐり合い、達磨図の指導をした。座禅し、瞑想のなかに達磨の姿が現れる。その悟りの境地に絵を極めることが禅であると、二人に教えた。その後、風外はあちこちを転々と歩きまわり、近藤貞用の支配地、遠州金指に現れた。狩野探幽から紹介のあった笹倉大学を訪ね、そこで俵屋宗雪に会うなどして、浜名湖北岸の『単丁庵』で晩年を過ごした。承応三年(一六五四年)の或る日、風外は『単丁庵』を出た。彼は米寿を迎えるのを嫌い、遠州石岡の地に至り、突然、村人に三百文を与え、自ら穴を掘らせ、その穴に入り、立花した。たまたまそこを通りがかった鉄牛慧覚(後の道機)が、その死を看取った。風外、八十七歳の生涯であった。

 

■風外信者

 風外が死去してから十年の歳月が流れた寛文四年(一六六四年)の春の日、明の高僧、隠元和尚についての黄檗禅の修行を積んだ鉄牛道機は、宇治の万福寺を離れ、隠元の弟子、明の僧、独湛と共に風外立花の地、遠州金指を訪れた。時の金指城主、近藤貞用は、明僧の来訪に大いに感動し、独湛をこの地にとどめ、風外が入滅した石岡の地に、宝林寺を開基させて、一族の菩提寺とした。また鉄牛道機は小田原に戻り、彼が師と崇め敬愛する風外和尚について人々に語り、寛文九年(一六六九年)、稲葉正則が風外慧薫の為に、梅原源五右衛門らをして建立させたという、長興山紹太寺の住職となった。その紹太寺は安政年間の火災で焼失してしまって今は無い。鉄牛道機が風外を偲んで植えた枝垂れ桜がその地に残っている。貞享二年(一六八五年)、『生類憐みの令』が発布された年、稲葉正則越後国高田に移封となった。その折、正則は小田原城内にあった風外の作品『父母像』を江戸築地の下屋敷に移して、その石像に朝夕、香花を供え、父母の供養を行った。それは〈この世は神仏、父母、兄弟などから過分の恩を受け、それに報いる返済の行為によって、秩序が保たれる〉という、仏恩報謝の気持ちを重んじる正則らしい行為といえた。現在、その風外の父母像は『咳の婆々』と呼ばれ、墨田河畔、向島黄檗宗弘福寺の境内にあるが、風外の作品であることは、全く忘れ去られてしまっている。

 

以上、風外禅師の生涯について記述したが、風外は忘れられた存在である。彼の生誕の地(群馬県)や立花入滅の地(静岡県)を訪ねてみたが、風外について知る者は意外と少ない。しかし、風外が生涯で最も長い年月を過ごした相模(曽我、真鶴、小田原、箱根)に於いて、彼は今なお「風外さん」と呼ばれ、民衆の心の中に生き続けている。このことは風外を敬仰する者にとって、実に嬉しいことである。

 

 *西さがみ庶民史録より、転載。

 第40号 平成10年(1998年)発行

 

 *長編小説『風外の月日』

 詳細を読みたい方は「小田原文芸」掲載を

 参照されたし。