倉渕残照、其の二


 慶應4年(1868年)3月1日、江戸幕府の元勘定奉行小栗忠順は知行地、上州権田村に入り、逼塞することを決め、当地に到着したが、彼の江戸から下向する行列は人目を引き過ぎた。行列の先頭を村井雪之丞一座が立ち、沢山の従者を引き連れ、江戸から高崎までの中仙道の長い道のりを、本来、使ってはならぬ荷車を使い、馬と駕籠に乗って進んだ小栗忠順の行列は、暫くの間、見かけなくなっていた大名行列のようで、ちょうっとした街道の見物となった。確かに総勢六十人程が、箪笥、長持、行李などの大量の荷物を運んで通過するのであるから、静寛院宮(和宮)が京に戻られるのではないかと勘違いする者もいた。お偉い誰かが通るのだと、街道脇に土下座して、小栗家一行が通過するのを拝む者たちにとっては、駕籠乗った美しい娘、鉞子は、静寛院宮と間違えられても不思議では無かった。そんな時、下野の悪党、荒金鬼定は足利に到着した『開明研』の噂を耳にし、幕府の勘定奉行小栗上野介が、上州の権田村に向かったと知った。荒金鬼定はもと勘定奉行のことだ、多分、在任中に、しこたま溜めた軍用金や宝物や武器を、権田村に運ぶに違いないと推測し、権田村を目指した。途中、『荒金一家』は中仙道の板鼻宿の豪商『十一屋』と『穀屋』を襲い、合計二千八百両程を奪って勢いづいていた。『荒金一家』は3月2日、下室田で、薩摩の手先の『御用党』と出会い、びっくりした。『御用党』の者が鬼定たちに尋問した。

「お前たちは何者だ?」

「俺たちか。俺たちは泣く子も黙る下野の『荒金一家』よ。お前さんたちこそ、そんなに大勢で、何か大事でもあったかね。八洲様とは違う見てえだが」

 鬼定が集団の頭領に訊くと、頭領は答えた。

「わしらは新政府から関八州の見回りを委託された「御用党」だ。元幕府の勘定奉行小栗上野介が、幕府の御用金を持ち出し、権田村に向かったとの連絡を受け、追求に参った。御用金を奪取せねばならぬ」

「それはお役目、御苦労さんで御座んす。でも可笑しいですね。幕府の金を新政府が奪い取るのですかい。それではまるで、泥棒じゃあありませんか」

「何だと!」

 鬼定の言葉に『御用党』の頭領は怒鳴った。だが鬼定は怯まなかった。

「丁度、良いやい。俺たちも御用金を盗みにやって来たのさ。一緒に御用金を奪いましょうや。俺たちが加われば、鬼に金棒ですぜ」

「てえした悪だな。名は何という」

「俺か。おれは荒金定吉。人呼んで鬼定で御座んす」

「そうか。『荒金一家』の鬼定か。わしは『御用党』の金井荘介だ。じゃあ、一緒にやるか」

「うん。そうすんべえ」

 話がまとまると、両一味は諏訪神社にて作戦会議を行った。新政府軍らしく、『小栗討伐』の旗を翻し、権田村の手前の三ノ倉の禅寺『全透院』に本拠を置き、三ノ倉、水沼、岩水、川浦の四ヶ村に一軒につき、一人、小栗討伐隊に参加するよう触れを出した。この動きは翌3月3日の節句の日、中島三左衛門によって知らされた。

「三ノ倉に集まっている新政府の『御用党』と称する者たちが、殿様と御家来衆を捕まえに襲って来る計画を立てているとのことで御座います。その中には足利の博徒、『荒金一家』の鬼定もいるとのことです。どうも新政府を語る悪党たちの集団と思われますが、どう致しましょう」

 忠順は、それを聞いても驚かなかった。

「そうか。左様な連中が現れたか。本物かどうか確認せねばならぬな。おーい。磯十郎はいるか」

 忠順が離れの部屋に声をかけると、塚本真彦と共に大井磯十郎が部屋に現れた。忠順は三左衛門に事の次第を二人に説明させ、こう命じた。

「雨が降っているのに面倒なことだが、三ノ倉に出かけ、何の理由での小栗捕縛なのか質せ。多分、やつらは偽者だ。金が目当てであろう。本当に捕縛が目的なのか、金品が欲しいのか確認せよ。折衝しながら、相手の真意を探って帰って来い」

「承知しました」

 真彦が答えると、磯十郎が、それを制した。

「塚本様は村の者でないので、殿様のお側にいて下さい。他の村の者を連れて行きます」

「じゃあ、あっしが一緒に行きましょう」

 三左衛門が同行を申し出ると、磯十郎は首を横に振った。磯十郎は江戸で幕府兵として鍛えられて来た武人としての自信に溢れていた。だが結局は、村との交渉事があるかも知れないので、兄、兼吉と三ノ倉の『全透院』に行き、『御用党』の隊長に面会を申し出た。すると隊長たちは岩水村宮原の名主、丸山源兵衛の屋敷にいるというので、そこを訪ね、『御用党』の金井荘介らと面会した。会談を始めると案の定、金井荘介らは、三千両出せば見逃してやると言い出した。そこで磯十郎は金井荘介に要求した。

「俺は幕府陸軍に仕える大井磯十郎である。小栗上野介様の警護を司る役人として権田村に派遣されておる。貴方たちが新政府の小栗捕縛役なら、新政府からの捕縛の理由を書いた逮捕状を戴いている筈。それを見せてもらいたい。さあ見せてくれ」

 すると金井荘介は渋い顔をした・

「むむっ・・・」

 金井荘介が言葉に詰まったのを見て鬼定が笑って言った。

「そんな物、あるかい。金を出すか出さねえかを訊いているんだ」

「その返答は全くおかしい。それは暴徒による不法の脅しではないか。捕縛を見逃してやるから、金を出せなどとは筋が通らぬ」

「てめえ、新政府の御意向に逆らうと言うのだな」

「左様。逮捕状を見せて貰えぬのなら、我々は貴男たちを正規の『御用党』とは認めぬ。権田村に来るなら来るが良い。但し、こちらも『偽御用党』を退治すべく、迎え撃つ準備をしておく。そのつもりでやって来い」

「そうかい。いう事が聞けぬというのだな」

「そうだ。雪になりそうだから帰るぞ」

 大井磯十郎は、そう言い伝えると、『御用党』と同席していた岩水村の名主、丸山源兵衛を睨みつけ、兄、兼吉と一緒に権田村に帰った。二人は村に戻ると、佐藤藤七らと小栗屋敷に行き、相手一味の目的と人数を報告した。忠順は驚かなかった。息子、忠道、塚本真彦、荒川祐蔵、塚越富五郎ら家来や佐藤藤七ら村人を集めて言った。

「多分、敵は明日、やって来るであろう。想像するに相手は浪人や博徒を集めた烏合の衆だ。こちらは、お前たち幕府歩兵として訓練を受けた精鋭ぞろいだ。それにフランスの新式銃もアメリカ製のライフル銃もある。相手が多くても、皆で力を合わせれば、簡単に暴徒を撃退出来る。今からぬかり無く準備せよ」

「ははーっ。直ちに準備にかかります」

「おう、そうだ。申し訳ないが、村の男どもにも共に戦うよう槍や刀を与えよ」

「はい、わかっております。猟師には鉄砲を持参させます。また近隣の小倉、荻生、大戸、三輪久保、増田、後閑の村々にも助っ人を、これから頼みに参りやす」

「雪の中、御苦労だが頼むぞ」

 忠順にそう言われると、佐藤藤七や中島三左衛門は雪の散らつく中だというのに、早川仙五郎、鼻曲辰蔵、猿谷千恵蔵たち数人を各村に走らせた。翌3月4日の早朝、忠順は母、邦子他妻子及び家来たち婦女子を藤七らに託し、大沢部落に避難させた。当然のことながら、権田村の老人や婦女子も吾妻寄りに避難させた。小栗家の戦闘部隊は小栗忠道、塚本真彦、荒川祐蔵、沓掛藤五郎、大井磯十郎らを隊長とする五部隊とし、それに従う家臣や百姓たちのそれぞれに槍と刀を持たせ、鉄砲を使える者には新式銃を与えた。昨夜。わずかに積もった雪が朝日に、キラキラ溶け出すと同時に、三ノ倉方面から竹槍や刀や弓を持った連中が、『小栗討伐』の旗を掲げ、権田村入口にやって来た。その報告に忠順はやるしかないと思った。敵はまず、村の入口の数軒に火を点け、気勢を上げた。竹槍を持っているのは、無理やり集められた百姓たちに違いなかった。オドオドしているので直ぐに分かった。だが『御用党』の金井荘介は威勢が良かった。

小栗上野介。権田村に退去するにあたって幕府の御用金は運んで来たであろう。我々は、その御用金の奪回と小栗主従を捕縛に参った。大人しく縛につけ!」

 そう叫ぶと彼らは見張りに立っていた権田村の者に斬りかかった。一味は暴徒に百姓を加えた連中で、二千人程に膨れ上がっているが、ほとんどが百姓だった。威勢の良いのは赤い鉢巻きをしている者なので、各隊長には赤い鉢巻きをした者を狙えと命じた。忠順は権田村の者に屋敷を守らせ、暴れ回る敵を訓練通り、攻撃させた。暴れる赤い鉢巻きをした『御用党』と暴力団『荒金一家』の連中は、フランス顧問団のもとで訓練した小栗戦闘部隊と戦うことを恐れず、攻めて来た。小栗部隊の兵士たちは敵に勇敢に立ち向かい、敵を散々、痛めつけた。それでも彼らは立ち去らなかった。それどころか、川浦村の猟師、八人に背後の山から鉄砲で攻撃させた。相手が鉄砲を使用したので、こちらも鉄砲隊を使用し反撃すると、敵の鉄砲組は最新銃の威力に驚いて遁走した。兎に角、相手は烏合の衆とはいえ、大勢なので、小栗部隊の兵士たちも疲れ始めた。その時、『新井組』の山田城之助が、土塩村や増田村の連中、百人程をかき集めてやって来た。

「遅くなって申し訳ありません。後は任せておくんなせえ」

「おお、来てくれたか。竹槍を持った連中は、敵に無理矢理に集められた百姓たちだから、痛めつけるな。赤い鉢巻きをした連中をやっつけてくれ」

「へい。分かりやんした」

 そう言うと、城之助の連れて来た島田柳吉、武井多吉、湯本平六、上原五エ衛門、中山清兵衛、黛嘉兵衛たちは、小栗主従を攻める荒くれ男どもに挑みかかった。敵の集団の中に足利の金蔵と定吉の兄弟がいるのに気付くと、城之助は、『荒金一家』の者を叱り飛ばした。

「おい。下駄金に鬼定の兄弟。てめえら、何を考えているんだ。小栗の殿様がどんなお方か知っているんか」

「おう、久しぶりじゃあねえか、城之助。知るも知らぬも関係ねえ。俺たちは新政府『御用党』の隊長の命令をいただき、上野介の軍用金を奪いに来たんだ。邪魔立てするな。邪魔をすると、叩き斬るぞ!」

「軍用金なんて、ありゃあしねえよ。詰まらねえ考えは止めて、怪我人が増えねえうちに、とっとと地元に帰んな」

「城之助。てめえ、逆らうって言うんかい」

 金蔵の顔色が烈火の如く真っ赤に燃えた。その四角い下駄のような金蔵の顔を見て、城之助は笑った。

「俺は殿様に大きな借りがあってな。殿様に向かって不正乱暴を働く奴を許す訳には行かねえんだ。ここから先には絶対行かせねえぞ」

「あくまでも逆らうって言うんだな。しゃらくせえ、てめえら、城之助をやっちまえ」

「くたばれ、城之助!」

 下駄金に言われて鬼定が斬り込んで来た。城之助は左に跳んだ。長剣を振り上げ、そのまま拝み打ちに振り下ろした。

「わあっ!」

 鬼定は眉間を斬られ、後ろに卒倒した。大量の鮮血が鬼定の額から噴出した。それを見た下駄金が、激昂して襲い掛かって来た。城之助は今度は右に移動し、下駄金の胴を斬った。下駄金は己れの腹を抱えて、地面に突っ伏した。敵は『新井組』の来襲と鉄砲隊の攻撃による容赦のない殺意に驚愕し、身震いして身動きが出来なくなった。その敵を城之助の子分たちが、据え物斬り同然に、バッタバッタと斬り倒した。

「おのれ!」

 暴徒の先導者『御用党』の金井荘介は、身の危険を感じ、引き上げの笛を吹いた。『荒金一家』の金蔵と定吉がやられてしまってはどうにもならない。残っているのは、一時、集めた百姓や浮浪者たちばかりであり、戦闘体制が充分に整えられている小栗部隊を打ち破ることは不可能だった。金井荘介の笛の音を聞いて、暴徒は百姓たちと一緒に一斉に逃げ出した。その逃げる暴徒に向かって、東善寺の倉庫から運び出した大砲を荒川祐蔵たちが空に向かって撃った。

「ドーン!」

 その爆音は榛名山麓に轟き渡った。逃亡者たちは爆音を聞き、腰を抜かしそうになりながらも蜘蛛の子を散らすように、あっという間に逃げ去った。今まで人間どもの争いを木の上で面白そうに眺めていた鳩や雀たちも、その爆音で一斉に思い思いの場所へと飛び去った。権田村襲撃に加担した四ヶ村の者たちは、この後、どうなるのか、びくびくして処罰を待った。自宅を『御用党』の本部に貸した名主、丸山源兵衛は、戦闘が終わり、様子見に来たところを大井磯十郎と池田伝三郎に斬られ、首を刎ねられた。敵の死者は、およそ二十人。小栗部隊は、そのうちの五人の生首を東善寺前の石段に並べ、生捕七人を東善寺の土蔵に閉じ込めた。戦いは午前中に終了した。午後、四ヶ村の代表が、『御用党』と『荒金一家』の連中に脅かされて余儀なく、襲撃に参加したので、どうかお許し下さいと詫びに来た。忠順は家来や権田村に死者が二人、負傷者が数人出たが、被害が大きくならなかったので、詫状提出をもって許すことにした。忠順は小栗家と家臣たち及び村の老人、婦女子たちが戻って来ると、御苦労さん会を催した。助っ人に駆け付けてくれた山田城之助たちにも参加してもらい、用心の為、一晩、泊ってもらった。翌5日、忠順は死亡者の家に弔慰金を、城之助たち助っ人に謝礼金を、家を焼かれた十四軒に見舞金を渡した。こうして終わった事件は、直ちに近在に伝わった。このことは江戸にも直ぐに伝わるであろうと、忠順は一段落すると上様付の幕府の寄合、平岡道弘宛てに、事件の詳細を報告する書状を送った。それから、周囲や村が落ち着きを取り戻すと、忠順は自分の隠居所を近くの観音山に建てることにした。村人たちは、忙しくなった。忠順の隠居所の他、東善寺に仮住まいの塚本真彦ら家来の家も準備しなければならなかった。幸いにも手間賃が貰えるとあって、数日前、襲撃に加担した隣村の連中も地ならしなどの手伝いに来てくれることになった。こうして小栗忠順の権田村での平和な土着生活が始まりを見せた。ちょつと離れた大戸の向こうの中之条では暴徒が現れたとのことで、小栗部隊の救援を求めて来たので、忠順は、歩兵隊の連中を派遣して、暴徒を追い払ってやった。結果、権田村の小栗忠順は周辺地域から信頼される人物となった。

 

         〇

 権田村の事件が終わった3月6日、岩倉具貞を東山道先鋒総督とする官軍は碓氷峠を越え、関東へ入って来た。岩貞具定総督や伊地知正治たちは権田村の事件の噂を聞いて横川から本庄まで逃げるように中仙道を急いだ。そして13日、板橋宿に到着すると、下諏訪で別れた板垣退助率いる別動隊が江戸に入るのを待った。その頃、江戸市中では小栗忠順の権田村での事件の噂が広まり、幕府でも平岡道弘から上野寛永寺でひたすら恭順を続ける徳川慶喜に事件の真相を伝えた。また江戸城にいる幕臣たちに事件の報告が伝わると、城中は大騒ぎになった。勝海舟は慌てた。慶喜に罷免され、幕府に見切りをつけた忠順が、何をしでかすか、気が気で無かった。海舟は上野寛永寺大慈院にいる慶喜のもとへ走った。

「上様。大変です。あの小栗上野介が、上州権田村で大砲や鉄砲を使い、戦闘演習を開始したとのことです。その為、近隣の百姓は逃亡し、今、上州では主戦論に賛成する輩が、四方八方から集まり、官軍を撃滅すると騒ぎ回っているとのことです」

「平岡の報告とは、ちと違っているが、それは本当か?」

「真実に御座います。まずいことになりました。これでは我々の苦心も水の泡です。上様の恭順のことを、朝廷側に説明して参りましたが、この有様ではどうなるか分かりません。官軍は、より一層、厳しい要求をして来るでありましょう」

「左様か。上野介が始めおったか」

 海舟からの報告を聞き、慶喜はほくそ笑んだ。うまくすれば小栗軍団なるものが、薩長軍を打ち破り、幕府軍を再興してくれるかも知れぬ。相手が誰であろうが、正しいと思ったら、喰ってかかって来る忠順の気性は好まぬが、彼の英知と行動力は、幕臣の中にあって、右に出る者はいないと分かっている。その忠順を罷免したことは誤りであったかも知れない。彼を幕府に残しておいたなら、諸外国の意見を採り入れ、全国の大名からなる議会政治を行い、自分はその議長として先頭に立ち、日本国の行政府代表たる国家元首、大統領に就任することが出来たかも知れない。ところが、彼と入れ替えた目の前の勝海舟はどうか。こ奴は幕府のことは考えていない。陸軍総裁に任命してやったというのに、官軍との対決を恐れ、江戸の幕臣及び諸侯たちの国許への帰国を奨励し、幕府の軍事力を弱体化させている。そのことによって新政府から自分たちに有利な譲歩を引き出そうとしている。大滋院の中に幽閉状態にされてしまっている慶喜が、後悔したところで、時、既に遅しである。慶喜の胸中を知らぬ海舟は、慶喜に訴えた。

「官軍は有栖川宮様を中心に駿府にて参謀会議を開き、3月15日、江戸の総攻撃を決定したとのことです。江戸の町を焦土にする訳には参りません。何としてでも、平和裡にことを治めるねばなりません」

「江戸総攻撃だと。それはあってはならぬ事だ。断じてさせてはならぬ。何とか喰い止めよ。至急、上野介を江戸に呼び戻せ!」

「それはなりません。そんなことをしたら、折角、恭順なされておられます上様の御首が飛ぶことになります」

「め、滅相もない」

 慶喜は怯え、首をすくめた。海舟は慶喜の性格を見抜いていた。この時とばかり、自分の考えを述べた。

「そこで私、勝海舟は我が家にいる薩摩藩士、益満休之助を山岡鉄太郎につけ、駿府総督府へ送ろうかと思います。上様の恭順の様子を説明させ、上様の御助命と江戸市民百万の救済を嘆願させるつもりです」

「上野介を江戸に呼び寄せないのか」

小栗上野介には使者を送り、上様同様、恭順されるよう命じます。そう致しませんと総督府は江戸総攻撃を開始し、この上野寛永寺にまでやって来て上様の抹殺を強行するでありましょう。御首を飛ばされるのですぞ」

 海舟の脅しに慶喜は震え上がった。忠順の決起に期待しているものの、今となっては、海舟の指示に従うしか、方法が無かった。慶喜は海舟に言われるままに不承不承、海舟の言に従うことにした。海舟は慶喜の承諾を得ると、山岡鉄太郎を駿府に走らせた。山岡鉄舟は、益満休之助に案内され、3月9日、駿府で西郷吉之助に会った。鉄舟は勝海舟からの手紙を西郷に渡し、徳川慶喜の意向を述べ、朝廷政府の善処をお願いした。すると、西郷は次の五ヶ条の条件を鉄舟に伝えた。

 一、江戸城を明け渡す事

 二、城中の兵を向島に移す事

 三、兵器を総て差し出す事

 四、軍艦を総て引き渡す事

 五、徳川慶喜備前藩に預ける事

 それを受けた山岡鉄舟は、このうちの最期の条件を拒んだ。西郷は顔を歪めた。

「これは朝命でごわす」

 西郷は朝命であると凄んだ。だが鉄舟は引き下がらなかった。もし条件を受け入れられないなら江戸百万の民と主君の命を守る為に、目下、慶喜に従い恭順している小栗上野介らが、主君への忠義を貫かんが為に、自分等と一緒に官軍と決死の戦いに挑むことになろうと言い返した。西郷は、この鉄舟の忠誠心に心動かされ、その主張を認め、3月13日、江戸にて勝海舟と最終会談を行うと伝え、鉄舟を江戸に帰した。かくして13日の当日、西郷は江戸高輪の薩摩屋敷で勝海舟と久しぶりに会談した。密書でのやりとりは何度かあったが、四年ぶりの再会であった。幕府の旧態を嫌悪し、公武合体では無く、朝廷を中心とする新政府を樹立すべきではないかと、坂本龍馬と語った、あの日の海舟が、幕府の代表として今、目の前にいる。西郷は不思議な気分であった。あの日から自分は倒幕論に傾き、熱烈な勤王思想を持つ大久保一蔵と共に、薩摩藩主、島津久光に対し、王政復古による公議興論政治を目指すべきだと訴え、藩論の統一を計って来た。そして今や王政復古に成功し、自分は東征軍の参謀として、この席に臨んでいる。夢のようだ。あの日の海舟が恭順する徳川の君臣として目の前にいる。何という巡り合わせか。西郷吉之助は海舟に再会すると、懐かし気に笑った。

「勝先生。しばらくぶりでごわす」

「あいやっこりゃ、西郷先生。びっくりさせてくれるじゃあ、ありませんか。その軍服姿、イギリス人が現れたのかと思いましたよ」

「からかわないでくれ申せ。早速、話に入りとうごわす。今日の会談は国家を左右する重大な会談でござる。おいは見ての通り、金もいらぬ。名もいらぬ。命もいらぬという人間なれば、その相手が同様でなければ、共に国事を談ずることは出来ぬ。お前さんはどうかな?」

「勿論、同様でござる」

「では話に入ろう。この間、山岡さんから、勝先生からのお手紙を受け取り、種々、山岡さんと口論し、その後、良く考えてみました。勝先生の日本国を思う心、よう分かりました。ご最もでごわす。まあ、今日のところは、江戸総攻撃は一時延期するとして、酒でも飲みながら、じっくり話しましょうや」

「江戸総攻撃を延期していただけるのですか?」

「当然でごわす。山岡さんからあのように、小栗上野介の率いる旗本八万騎とフランス顧問団の恐ろしさを語られ、嚇されてしまっては、西郷としても、静寛院宮様の残っておられる江戸を攻めることは、得策とは思えんでごわす。山岡さんと約束した四項目については、必ず守ってくれやいな。そうすれば勝先生の顔も立ちごわしょう」

「有難う御座います」

 西郷の言葉を聞いて、勝海舟は畳に頭をつけて平伏した。あの海舟が自分に頭を垂れている。そんなことをさせてはならぬ。西郷は慌てて海舟の手を取った。

「勝先生。おいに頭を垂れるなど止めてくれやい。討幕を論じ、日本のあるべき姿をおいに教えてくださったのは勝先生でごわす。まあ遠慮せず、酒でも飲んでくれやいな」

「いや。今日は、酒は遠慮させていただきます」

「何故でごわすか?」

「今日の西郷先生との会談のこと、上様や静寛院宮様がとても心配しておられます。この吉報を一時も早く、お二人にお伝えしなければなりませんので、申し訳ありません。また明日、お伺い致します」

 西郷は、そう答える海舟の目に涙が光るのを見逃さなかった。ああ、海舟が泣いている。何としたことか。

「静寛院宮様はお元気でごわすか?」

公武合体の理想の為に江戸の降嫁された御身ではありますが、このような事態になろうとは思っていなかったと、悲しみの日々をお過ごしになられておられます。静寛院宮様はもし官軍が江戸に攻め入ったなら、江戸城に火を放ち、その火炎の中で死ぬ御積もりです」

「そげんなまでに、悩まれておわしますのか。分かりもした。この西郷との会談の報告、早くお伝えしてくれやい」

「有難う御座います。明日、またお伺いします」

 海舟は深く頭を下げると、急いで帰って行った。その立ち去って行く海舟の後ろ姿に西郷は故知れぬ親近感を抱いた。西郷は、勝海舟との会談が終わるや、村田新八桐野利秋を呼んで、江戸総攻撃を延期するよう指示した。そして翌14日、西郷は再び海舟と会談した。海舟は静寛院宮と徳川慶喜に朝廷側からの処分案を検討いただいた上で、西郷と対面した。

「昨日は有難う御座いました。上様や静寛院宮様は百万の江戸市民の命が救われたことを、涙を流して喜んで下さいました。西郷先生。江戸城は明け渡しますが、御殿を焼くのだけはお止めになって下さい。江戸城は徳川の城であり、それを焼くことは、恭順一途の上様を焼くのと同じであり、外国も黙っておりません。御殿を焼くのだけはお止めになって下さい」

 昨日と、うって変わって、海舟はべらべら喋った。何故か会談に自信があるようだった。西郷には、それが何であるか、分かっていた。多分、坂本龍馬が何時も気にしていた目に見えない敵、小栗上野介の動向が、徳川慶喜の背後に存在するからに相違なかった。西郷は確認した。

「外国も黙っておりませんとは、フランスが動いているのでごわすか?」

「はい。フランスの他、イギリスの軍艦が江戸湾に入り込んで来て、江戸城を焼くようなことがあれば、上様を救出するということです。万国公法という国際秩序を守る為の他国への介入だそうです。しかし、そうなってしまったら、外国からの干渉が始り、日本国は印度や清国のと同じように、欧米列強の植民地になりかねません。彼らは江戸での戦闘が起こり次第、公使館及び居留地等の安全確保を理由に、江戸を皮切りに日本全土で軍事行動を開始します。それも消滅した徳川幕府では無く、貴方たち官軍に向かってです。そして日本は、5ヶ国に分割されるでありましょう」

 西郷はイギリス公使、パークスに会って来た総督府参謀、木梨精一郎の報告と同じ話を海舟の口から聞いて、列強国の魂胆に憤りを感じた。西郷は日本国を分割されてはならぬと思った。

「勝先生。日本を分割されるようなことなど、あってはならぬことでごわす。日本国の変革は我々、日本人がやるべきことであり、外国人に頼むようなことでありもさん。何とか反対者を押さえてくれやい」

「そう申されましても、外国人が味方する連中は手強いです。眼の上のたん瘤は何といっても、小栗上野介です。貴奴は上州権田村に退き、謹慎しているとのことですが、先般、二千人からなる『御用党』の襲撃を撃破しており、その後、更に軍備を充実させているとの噂です。官軍の力で貴奴を抹殺して下さい」

「そげんことをしたら、フランスをはじめとする列強国が黙ってないでごわす。関東八州の幕府の者の処罰は幕府でしてくれやい。おいは小栗の人物を知っちょっとに、殺すのは惜しいごわす」

 西郷は海舟が小栗嫌いなのを知っていた。海舟と小栗忠順はそれぞれの世界を見て来た経験から、国家観や世界観が違っていた。いわば幕府内にあって水と油のような混合不可能な敵対関係にあった。だが幕府を罷免され、恭順を貫いている小栗は果たして海舟がいうように、新政府にとって有害な人物なのか。それは疑問だった。しかし、海舟は続けた。

「私は小栗に消えてもらいたいのです。貴奴がこの世にいる限り、安心して夜も眠れません」

「分かりもした。小栗上野介の処置については三条実美卿と相談しておきもす。江戸城を焼くことも中止することにしもそう。但し、先般、山岡さんに申し上げた事項については、この場にて、ご返事いただきとうごわす」

 その慶喜の要請について海舟はあらかじめ慶喜と相談してまとめておいた嘆願書を懐中より取り出し、西郷に渡した。そこには約束に合わせた願い事、七項目が記されてあった。

 一、徳川慶喜は水戸に隠居し、謹慎するので、許可願いたい。

 二、江戸城は明け渡しますが、確認手続きが済み次第、田安家へ返却願いたい。

 三、軍艦、兵器は纏めおき、御寛典の上、官軍と分け合い、相当の員数を残しておきたい。

 四、城内居住の家臣どもには城外に移って謹慎するよう取り計らって頂きたい。

 五、徳川慶喜の妄動を助けた者どもについては格別の御憐慰をもって寛典なし下され、一命にかかるような処分の無きよう願いたい。

 六、万石以上の者どもについても、寛典を本則として、朝裁をもつて仰せつけられ度し。

 七、暴発の士民鎮圧の件は可能な限り努力致しますが、力及ばぬ時は、官軍のお力をもって、御鎮圧願いたい。

 西郷は一読し、渋い顔をした後、しばらく考え頷いた。はなはだ虫の良い内容であるが、総督府と相談してみると答えざるを得なかった。すったもんだして、列強諸国の介入を許せば、とんでもない屈辱的結果を見るかも知れなかった。理由は昨日、海舟が帰った後、アーネスト・サトウがやって来て、もし官軍が江戸を攻撃するなら、イギリスは江戸との貿易を不可能にしたくないし、フランスとも戦いたくないので、徳川幕府側に味方すると、パークス公使が言っていると伝えて来ていたからであった。そんな状況も知らず、江戸市中では、官軍なる朝廷軍がやって来て、江戸城を総攻撃するという噂で、右往左往の大騒ぎだった。幕臣たちは死を覚悟した。江戸開城の十五日、幕府重臣の一人、小栗忠順の先輩、川路聖謨は自らの手で割腹した後、ピストルで自殺し、幕府と共に自らを葬った。

 

         〇

 そんな江戸での状況を知らず、忠順は権田村での生活を楽しんでいた。朝は東善寺の塾舎に行き、道円和尚による子供たちの手習いの後、若者たちに、如何にしたら皆が幸福になれるかなどの講義を行った。午後には忠道と観音山の隠居所や家臣の住宅建設現場を視察したり、近隣の村々の様子を馬で見て回ったりした。母、邦子は天気の良い日に娘、鉞子と山菜採りに出かけたりして田舎生活を楽しんだ。身重の妻、道子は塚本真彦の母、美津と万希に手伝ってもらい着帯の儀を済ませ、村の鎮守にお参りに行ったりして、赤子の誕生に夢を膨らませた。3月13日、下斉田村の名主、田口平八と小林村名主、小林仙右衛門が挨拶がてらやって来て、倉賀野に大きな荷物が着いたと報告した。忠順は、『冬木屋』経由で吉田重吉が大物を運んで来た荷物であると分かっていたので、吉田重吉と共に山田城之助が陸路の段取りをしてくれると安心していたが、念の為、荒川祐蔵を倉賀野に送った。荷物は山田城之助や吉田重吉の関与する『新井組』の人足によって、3月16日に無事、到着した。その荷物四十個の中には『三井組』が準備してくれた千両箱や新式銃なども隠されていた。荷物が入荷すると、その仕分けに一苦労した。千両箱については、藤七と城之助に任せ、武器については東善寺の倉庫に格納した。これらの荷物整理を終え、ほっとした25日、江戸から用人、武笠祐衛門がやって、江戸の近況報告をした。

「今、幕府は、勝海舟と西郷吉之助が会談し、上様の嘆願書内容につき、朝議の返事待ちになっております。ところが江戸市中では、官軍に下るのを嫌う過激な連中が、薩長の専横に憤激し、『浅草本願寺』に駐屯し、『彰義隊』と称する部隊を組織し、官軍に対抗しようとしております。一方、品川方面では官軍先鋒隊が駐留するようになり、江戸市中は混乱状態です。勝海舟が、江戸奉行を罷免し、江戸の警備治安にあたる者が不在で、暴力、窃盗、放火、強姦がまかり通り、江戸から逃亡する者が増えております。旧幕臣たちも江戸城から性能の良い武器を持ち出し、大量脱走しております。江戸中、てんでんばらばらで、やりたい放題の有様です」

 小栗忠順たちは武笠祐衛門の報告に、江戸の事を案じた。徳川慶喜が、この状況を、どう考えているか忠順は知りたかった。

「上様は如何なされておる?」

「上様におかれましては忠誠を尽くす渋沢喜作率いる『彰義隊』に守られ、今も変わらず、恭順謹慎を続けておられます。上野の山は三千人にも及ぶ『彰義隊』の連中に警備され、盛り上がっております」

「左様か」

「その上野の『彰義隊』の隊士の中には、上州に隠棲された小栗様が官軍の手先の『御用党』の暴徒二千人を撃退したという情報を得て、『彰義隊』の総督になっていただこう申し出ている者もいる由に御座います」

「うむ、そうか」

 忠順は、権田村出発の前日、2月27日、滝川具挙の紹介と言って、駿河台の屋敷にやって来た渋沢成一郎のことを思い浮かべた。彼はあの渋沢篤太夫の従兄で『彰義隊』を結成したと言っていたが、彼の徳川への情熱は増々、激しく燃えて盛んなようだ。それに山田城之助の紹介で、成一郎と同じ、上様の守備隊に入れた上州生まれの天野八郎は、どうなっているのであろうか。

「ところで天野八郎はどうしている?」

「あいつには困ってしまいます。先日の12日、大平備中守様のお屋敷に『彰義隊』と名乗る者が押し掛け、乱暴狼藉を働き、大平様を殺害したので、問い質したところ、『彰義隊』の仕業ではないと言うのです。江戸は全く物騒です。でもあいつも良いところもあるんです。拙者が権田村に下向する話をすると、神田駿河台の御屋敷から浦和まで護衛の隊士5人をつけてくれました。お陰で大奥様の希望しておられましたお屋敷にあった椿の木を無事、ここまで運んで来ることが出来ました」

「おお、天野が手伝ってくれたのか」

「はい。そうで御座います」

 忠順は中々の剣客である天野八郎の心配りが嬉しかった。祐衛門が運んで来てくれた『明神の椿』は母、邦子が駿河台の屋敷で大切にしていた椿であり、何時の日にか権田村の屋敷にも移し植えなければと希望していたものであり、母、邦子は、その植木を見て、大喜びした。それにしても、大平鋓吉郎が殺害された知らせは衝撃的だった。

「あの大平殿が狼藉者に殺されたとは実に悔しい。残念でならない。駒井や日下の家はどうなっている」

「両家ともいざという時は、それぞれの知行地へ向かうと申しておられます。知行地が思わしく無い時は、こちらを頼りにすると仰有っておられました」

「そうか。こちらでも万一を考えて、準備しておこう」

「いずれにせよ、江戸は官軍が江戸城を総攻撃するという噂で、蜂の巣をつついたようです。15日、川路聖謨様は戦さの足手まといになることを、怖れ、ピストルで喉を撃ち抜き、自殺されました」

「何だと。川路様が・・・」

 忠順は、自分を可愛がってくれた先輩の自殺を知り、一瞬、次の言葉が出なかった。祐衛門の報告は尚も続いた。

「官軍先鋒隊の連中は、幕府重臣たちが、今、何処にいて、何をしているか捜査しているとのことで御座います。江戸の周囲に数ヶ所の陣屋を設け、幕府関係者の動きを監視しております。池上本門寺を本営とし、板橋、市ヶ谷、内藤新宿に兵を置き、官軍に従わぬ者を次々に処罰しており、江戸は最早、人の住む所ではなくなりそうです」

「それ程までに官軍が江戸を掌握し、傍若無人の振舞ををしておるというのか」

「江戸だけではありません。先日も、会津藩士、外島機兵衛、神尾鉄之丞、秋月悌次郎らが、殿に面会に来て、奥羽の状況を語つて行きました。仙台にも奥羽鎮撫兵が、九条道孝を総督として差し向けられたとのことで御座います。多分、官軍は仙台藩をまるめこみ、会津松平容保公の御命を狙うに違いないと申しております」

薩長はそこまでするであろうか」

 忠順には信じられぬ行動であった。江戸にいた祐衛門は江戸の状況からして、それも有り得ると肌を通して実感していた。

「油断はなりません。殿におかれましても用心が肝要です。何時、刺客が襲って来るか分かりません。御屋敷の守備を一層、固められますよう忠告申し上げます」

 武笠祐衛門の話を聞き、小栗忠順は勿論のこと、塚本真彦、荒川祐蔵、大井兼吉、大井磯十郎らは、この権田村も決して安住の地ではないと思った。翌日、忠順は、午前中、祐衛門を東善寺に連れて行き、塾舎での教育現場を見せた。何とその塾舎は『小栗塾』と名付けられ、祐衛門の知る材木商、吉田重吉が儒学を教えていた。算術は岩井重遠という男が、時々、来て教えており、壁には世界地図が張られてあった。祐衛門は、江戸の学習所に比肩する塾舎が、上州の山間の村に出来上がっている様を目にしてびっくりした。午後、忠順は息子、忠道に命じ、祐衛門を観音山の建築現場などへ案内させた。その間、忠順は各方面への手紙を書いた。夕方から、祐衛門と酒食を共にしながら、種々、依頼した。仕事に忠実な武笠祐衛門は忘れまいと、時々、用件を紙に筆で記した。武笠祐衛門の来訪は二泊三日の短い滞在だった。江戸へ戻る祐衛門に忠順は路用金などを渡して、江戸が危なくなったら直ぐに権田村に来いと命じた。

 

          〇

 権田村の『小栗塾』の噂は人から人へ伝わり、人気となった。近隣の村をはじめ、安中、高崎、中之条あたりからも、講義を聞きに来る連中がいた。そのうち足利や水戸の者までが顔を見せるようになった。この他藩からの塾生について、荒川祐蔵は注意を怠らなかった。水戸藩の三浦桃之助、足利藩の石川清左衛門などに用心したが、彼らは向学の士であった。そんな連中に混ざって、或る日、海軍副総裁、榎本武揚の使者を名乗る伊庭八郎という若者が尋ねて来た。忠順の知る榎本武揚からの使者という事であるが、本当に武揚からの使者かどうか分からなかった。伊庭は、忠順や塚本真彦たちを前にし嘆願した。

「小栗様。残念ながら江戸城が官軍に明け渡されることになりました。敵将、西郷吉之助と、勝安房守が話し合い江戸城明け渡しを決められたということです。榎本総裁は、それを知り、激怒しておられます。自分が幕府から預かっている軍艦をいずれ引き渡すようにと命令が下るものと想定し、小栗様の協力を求めるべく、拙者を権田村に差し向けた次第です。榎本総裁は大鳥圭介様率いる『伝習隊』、古谷作左衛門様率いる『羽生部隊』、渋沢成一郎様率いる『彰義隊』に連絡をとり、新幕府創設の計画を始めております。榎本総裁はこれを機に、小栗様に、もう一度、表舞台に御登場願い、新幕府創設の為の主軸になっていただきたいと考えております。本件について、御賛同いただけるか否か、その意中を、お聞かせ下さい」

 忠順は自分の家臣たちのいる前で、秘密の用件をベラベラ喋りまくる伊庭八郎の顔を見て、呆れ返った。相手の態度から、その考えを読み取ろうともせず、一方的に喋りまくる若者を信頼する訳にはいかなかった。忠順は微笑して答えた。

「榎本君の私への気持ちは有難いが、私は今や恭順隠棲の身。そんな希望は何処かへ失せてしまった。小栗には、その気持ちが無いと榎本君に伝えてくれ」

「しかし、この権田村の警備の有様。その気が無いなどとは申せません。村の入口の検問、観音山の建築、『小栗塾』の若者数、御屋敷内に並べられている鉄砲の数々等、まるで戦争中の砦のようで御座います」

 忠順の断りの返事に対し、伊庭八郎は鋭く追求した。何としても協力して欲しいという気迫であった。忠順は笑った。

「伊庭君。それは誤解だよ。実は、3月初め、この村は二千人にも及ぶ暴徒の襲撃に遭い、散々な目に遭った。君が見たものは、村人を暴徒から守る為の防備であり、戦さを始めようとする軍備では無い。誤解しないで欲しい。この村のことは口外しないで欲しい」

「分かりました。いずれ、我等の行動に賛同いただけるものと期待して、本日は、これにて失礼させていただきます」

「遠い所まで御苦労であった。榎本君に無茶するなと伝えてくれ」

「はい」

 伊庭八郎は元気よく答え、権田村から立ち去って行った。その伊庭八郎は江戸に戻り、権田村の小栗忠順の現況を海軍副総裁、榎本武揚に伝えた。武揚は伊庭から権田村の様子の報告を受け、小栗忠順には官軍に抵抗する姿勢ありと判断した。どうすれば主戦論者であった忠順が、再び、その気になってくれるか思案した。そして浮かび上がったのは忠順に横須賀製鉄所の件で諸々、助言して来た中島三郎助の権田村への派遣であった。武揚が三郎助に、小栗口説きを依頼すると、三郎助は快く引き受けた。3月30日、忠順が観音山から帰ると、中島三郎助が塚本真彦と話していた。忠順は三郎助の訪問を受け、大いに喜んだ。

「こんな山奥に良く来てくれました。実に嬉しく、懐かしいです。三郎助殿と私が一緒にいる時は、何時も目の前は青い海がありましたな」

「そうで御座るな。海には白い帆の船が沢山、浮かんでいましたな」

「カモメが波の上を飛び回り、時にはフランス技師、ヴェルニーたちも一緒だった。なのに今日は、隠居を決めた私の暮らす緑濃い森林の村で、三郎助殿との対面だなんて、まるで夢のようだ」

 再会の喜びを感じ合ってから、三郎助が言った。

「先日、榎本副総裁と一緒に伊庭八郎から小栗殿の話を聞きました。今、幕府海軍は、海軍総裁である矢田堀景蔵が陸軍総裁、勝安房守にペコペコしており、小栗殿が外国から導入してくれた幕府所有の軍艦を、官軍に引き渡そうとしております。それを怒った榎本副総裁はこの三郎助に、権田村を訪ね、新幕府創設、新政府樹立に、もう一度、小栗殿に協力願うよう、説得してくれと依頼して来ました。伊庭八郎を派遣したが小栗殿が伊庭を信用なさらず、小栗殿の本心を引き出すことが出来なかったとの判断のようです。それ故、昵懇の三郎助が行って、何としても協力してもらうようお願いして来いということで、それがしが参りました」

 忠順は腕組みして考えた。上様が恭順する情勢を考えるなら、朝廷の考えに一旦、服するしかあるまいに。無茶をするなと伝えた筈だ。なのに榎本は何故?

「海軍副総裁の榎本君が、新政府を樹立するなどと本当に考えているのですか。海軍は上様の恭順に従っており、勝安房守の下、彼の率いる艦隊は官軍に編入されると聞いていますが・・・」

 忠順には勝海舟が何を考えているか分かっていた。幕府の後始末を会計総裁、大久保一翁と共に任され、総てが海舟たちの思うがままであった。海舟は西郷吉之助と共謀し、徳川慶喜を引退させ、幕府の所有するもの総てを、そっくりそのままいただき、それを土産に、薩長土肥の仲間になり、無傷で平和裡に朝廷政権に加わろうという魂胆でいるに相違なかった。それ故、その配下である榎本武揚が、どのように考えているのか忠順には計りかねた。

「榎本副総裁は勝安房守が江戸城明け渡しを決めたことに立腹しておられます。上様は江戸城明け渡しについては了承されておられません。他の藩主たちが居城を所有すると同じく、田安家が他藩並みに江戸城を継承することを考えておられた筈です。それを勝安房守は自分の一存で決めてしまわれたのです。ひどいと思いませんか」

「勝安房守は相変わらずの曲者だな」

「勝安房守は信用なりません。江戸城の大奥や御用部屋、諸役所などにいた者は、既に城外に退去させられ、最早、幕府機能は存続しておりません。それ故、軍艦引き渡しの事も勝安房守が簡単に約束してしまうのではないかと榎本副総裁は勝安房守を疑っております。従って、榎本副総裁は勝安房守と決別し、官軍と対抗すると申しておられます。フランス軍事顧問団も榎本副総裁を支援すると賛成してくれています。陸軍歩兵奉行、大鳥圭介との密約も出来ております。こんな状況ですから、老体のそれがしも、若者の夢に身命を捧げようと思っております。これを機会に小栗殿にも是非、立ち上がっていただきたいと思います。三郎助からもよろしくお願い申し上げます」

 中島三郎助は熱心であった。忠順は自分や会津藩主、松平容保と共に主戦論を吐いた榎本武揚のことを思い浮かべた。更に三郎助は言った。

「榎本副総裁は会津公にも、このことを伝えたいと申しております。しかし、会津公の説得については、三郎助には手立てが御座いません。そこで小栗殿から会津公に決起を呼びかけて頂きたいのです。榎本公は、会津公と連合し、会津を本拠とした新政府の樹立を考えております」

 三郎助の語る新政府樹立の話は忠順の心を揺さぶった。欧米に似た新政府樹立は、忠順の夢でもあった。同じ夢を抱く者たちが続々と集まっているという。自分が努力して来た富国強兵に関わる外国貿易、陸海軍養成、造船、鉄道、銀行、郵便、教育などの事業は中途半端なままであり、何としても次の時代を引き継ぐ者たちに継承してもらわねばならぬ。それを思うと忠順は、居ても立ってもいられなくなった。

「三郎助殿。榎本君の気概、充分に分かった。真実、彼が新政府樹立の考えがあるなら、その仲間に加わることも良かろう。しかし、その前に会津公にその意欲があるか確かめる必要がある。会津公の決意の程を確認してから、御返事致す。それまで早まらず、呉々も慎重であるよう榎本君に伝えて欲しい」

 忠順は己れの本心を三郎助に吐露した。それが熱気盛んな榎本武揚に、どのように伝わるか否か分からぬが、本心を吐露したことによって、胸の奥底にわだかまっていたものが外部に放出され、胸の内がすっきりした。三郎助は権田村に一泊すると、翌朝、朗報を持って江戸に帰って行った。この中島三郎助の来訪は忠順に発破をかけた。忠順は『小栗塾』の若者に説いた。

「諸君、良く聞け。今や江戸では将軍のおられた江戸城を官軍に引き渡すことになり、徳川幕府は潰れたと言っても過言ではないであろう。国家の政治を担って来た正統派が正統派と理解されない不思議な時代だ。日本国政府の使者として諸外国に出かけ、先進国の知識を吸収し、各国大使との交流を通じ、今、日本国に何が一等大事なのかが分かっている人間が正統と見做されず、異国人から得た耳学問薩長の意見が大事にされる時代は、どう考えても間違っている。私は自らアメリカ国を訪問し、海軍所を見学した。自らロシアの艦長と面談した。フランス公使、ロッシュとも親しい付き合いをして来た。かの私の目にし、手に触れた現実こそが、正しいと自分は信じている。信じているからこそ、私は陸海軍の伝習所を開設し、横須賀に軍港を設け、軍艦製造の為の造船所の建設、弾薬製造と大砲製造の為の鉄工所の創設を行った。また貿易商を設立し、横浜だけでなく兵庫港を世界に向けて開港した。フランス学校を設立し、船便をはじめとする伝便局の創設も行った。また欧米各国が求める生糸の増産の為に繰り糸機械の導入などの検討も進めた。この上州から生糸を運ぶた為の高崎から横浜間の鉄道敷線計画もまとめた。海外への留学生も沢山、送った。外国人賓館も建設した。兎に角、あらゆることを計画し、あらゆることを実行に移すべく活動して来た。この実行力こそは、徳川幕府の力があったればこそのものである。このことは徳川政府が正真正銘、日本国の政府であるという証である」

 ここで忠順は一息ついた。『小栗塾』の若者、清水永三郎、武井荒次郎、吉田政造、岩井喜四郎、三浦桃之助、上原杢弥、石川清左衛門、斎藤壬生雄、大井憲太郎、上原八五郎らは小栗忠順が発する言葉に引き込まれた。話は尚も続いた。

「ところが薩長をはじめとする外様藩の者が、世の中を知らぬ幼帝をだまし、錦の御旗を掲げ、江戸に乗り込んで来て、あたかも薩長政府が日本国政府の如き振舞いを始めた。その新政府を語る薩長政府は暴力軍団の結合であり、偽政府集団である。私は江戸城の大広間にて、この悪しき薩長軍団を武力をもって潰してしまえと提唱した。その主戦論が受け入れられれば、偽政府を撃破出来たものを、不幸にも私の請願は受け入れられず、徳川政府は薩長軍団に屈することになってしまった。私の富国強兵の夢は幕府崩壊により、中断されてしまった。誠に残念至極である。私は二百六十五年の泰平を続けて来た幕府の現在の統率者数人の精神的弱体化が幕府を自ら滅亡させることになるであろうと諦め、この上州に引き上げて来た。この私の慚愧と正しい世界に向けた知識を理解し、受け継ぎ、これからの日本国を、世界の一等国に導いてくれるのは、ここ東善寺に集まっている諸君ら上州人をおいて他にない。彷徨える日本国を救えるのは、この上州の若者たちをおいて他にない。諸外国の侵略から日本国を守るのは諸君らをおいて他にない。諸君らの若い力を、小栗上州は信じている。どうか諸君、これからは、この私に代わって日本国の先鋒となって頑張って欲しい。私のやり残した多くの事業を完成させて欲しい。日本国を大統領制にし、この上州から、何人もの大統領を出して欲しい。私が企画したものが完成すれば、日本国は必ず列強諸国の仲間入りが出来る。外国から攻められても、日本国海軍の戦艦部隊と陸軍砲撃部隊で敵に勝利することが出来る。今はじっと我慢し、私の描いた世界を追ってくれ」

 中島三郎助との面談は、眠っていた小栗忠順の夢を呼び起こした。忠順は家臣たちの住宅建設の他に余分なことまで考えるようになり始めた。このまま,山間の地で埋没してしまって良いのか。まだ若者たちと一緒になって夢を追うべきではないのか。人生は長い。引っ込むのは、まだ早い。これから子供が生まれて来るのだ。

 

         〇

 4月8日、倉賀野から、江戸に残っていた荷物が、また運ばれた来た。『開明研』にあった大砲や機械工具などの厄介物だったが、江戸に於いて置くのも問題なので、星野広三郎が吉田重吉と江戸から船で倉賀野迄運び、そこから山田城之助たちと馬車で運んで来た。忠順は大砲の保管場所に困り、東善寺の倉庫のアームストロング砲を木ノ下の岩屋に移動し、入れ替わりに飾り物の大砲を東善寺の倉庫に入れた。11日には足利の高橋村から人見惣兵衛が御機嫌伺いにやって来た。挨拶の後、惣兵衛は『開明研』の連中の事を報告した。

「吉田好三郎様たち七人は、一ヶ月ちょっと高橋村にいただけで、古谷作左衛門の誘いを受け、『羽生部隊』に加わり、数日前、会津に向かわれました。殿様にこのことをお伝えするよう申されて、村を出て行きましたので、お伝え致します」

 それを聞いて、忠順はぽつりと呟いた。

「そうか。あいつらも会津に向かったか」

「吉田好三郎様は権田村で殿様が、どうなされておられるのか案じながら、村を出て行きました。皆、何か思い詰めたご様子でした」

「そうか。人それぞれだな」

 忠順はそう言って笑った。それから惣兵衛は連れて来た人足と佐藤藤七に会い、数日、権田村の建築現場の手助けをした。小栗家の者たちが権田村にやって来てから、権田村は町場のように賑やかになった。小栗家でも、人が増え、食料品など入手せねばならず大変だったので、惣兵衛に米の都合などを依頼した。そんな所へ、今度は多田徳次郎が江戸からやって来たので、星野広三郎を人見惣兵衛たちと一緒に帰した。徳次郎は忠順に江戸の様子を語った。

「去る11日、上様は上野寛永寺を出て水戸へ向かわれました。同日、官軍参謀、海江田信義、木梨精一郎が薩摩、長州、尾張、熊本などの七藩の兵を率いて江戸城に入城し、江戸城は完全に官軍に接収されました。城郭は尾張藩、武器は熊本藩が管理することになり、21日、熾仁親王が入城するとのことです。残念です」

「そうか。でも良かったではないか。無血開城が出来たのだから・・・」

 忠順の言葉に多田徳次郎は首を傾げた。思っているのと違う主人の言葉に納得が行かなかった。徳次郎は問い質した。

「殿は、それで本当に良かったのですか。今まで積み重ねて来た努力を、総てお捨てになってしまうのですか。それがしたちに抱かせた夢を忘却せよというのですか」

「うんそうだ。混迷している世の流れを静観するしかあるまい」

「それでは、幕府に仕えて来た幕臣はもとより、会津藩桑名藩庄内藩の方々は、どちらの道へ進めば良いのでしょう。進む道を示してやらねば可哀想過ぎます。先日、駿河台の屋敷に伊庭八郎がやって来ました。会津は今、奥羽鎮撫総督、九条道隆らの威嚇に対し、降伏嘆願を願い出ていますが、何故か、官軍は京都守護役を務めた会津藩と江戸市中警護役を務めた庄内藩を徹底的に討伐しようと考えているとのことです。噂では官軍の陰に隠れて大久保忠寛勝海舟らが会津公を亡き者にしようとしているとのことです」

 忠順には徳次郎の報告を信じたくなかった。徳川幕府内で優遇されなかったとはいえ、大久保一翁勝海舟の家族郎党は徳川幕府の給金で飯をいただいて来たのではないのか。その恩義をも顧みず、徳川幕府の象徴である江戸城が、彼らによって、ついに官軍と称する過激派集団側に引き渡されてしまった上に、会津公を亡き者にしているだと。忠順の本心は煮えくり返った。徳川慶喜はどう思っているのだろうか。その慶喜は既に江戸を去っていた。慶喜の水戸への下向に剣客、中条金之助の率いる『精鋭隊』と新門辰五郎の率いる一団が一緒したが、渋沢成一郎率いる『彰義隊』は勝海舟によって、寛永寺に止め置かれた。渋沢成一郎たちが、慶喜を再び担ぎ上げ、海舟たちの邪魔をするかも知れなかったから、『彰義隊』は寛永寺留め置きとなった。結果、慶喜下向と聞いて上野に参集した旗本の若者たちや、諸藩からの脱走兵が上野の『彰義隊』に加わり、上野の山は武装兵で膨れ上がった。それに呼応するかのように、翌12日、幕府伝習隊の大鳥圭介が部下千五百名を引き連れ、江戸を脱走、神田小川町から下総の鴻之台に移った。そこで既に鴻之台に集結していた土方歳三ら『新選組』の残党及び桑名藩兵と合流し、官軍に対抗しようという態勢に入った。また江戸湾海上では海軍副総裁、榎本武揚の率いる『開陽丸』以下、8隻の幕府艦隊が、品川沖から房州館山に逃亡し、官軍の動静を窺がっていた。江戸城無血開城の条件として、幕府の軍艦総てを引き渡すと、海舟が決めたが、武揚には、それが納得出来なかった。その武揚の行動を知った勝海舟は慌てた。長崎海軍伝習所の後輩である榎本武揚が何故、自分の命令に従わず、何故、逃亡したりするのか。海舟は単身、馬を跳ばし、館山に馳せ、榎本武揚に会った。海舟は武揚に会うなり言った。

「榎本。俺があれ程、堪えてくれと言ったのに、なんで堪えてくれなかったんだ。軍艦の引き渡しを強硬に拒むお前の気持ちも分かる。俺だって辛い。俺が太平洋を横断した『咸臨丸』は俺にとっても宝だ。手放したく無い。だが日本国民がひとつにまとまる為には、そんな感傷を捨てて朝廷に差し出さなければならないのだ。そうでねえと江戸は火の海になるところだったんだ。分かってくれ、榎本!」

「分かりません。我々9人のオランダ留学生がオランダから乗って来た最新鋭艦『開陽丸』は小栗様が幕府費用で幕府の為に購入された軍艦です。これらの軍艦は徳川幕府の財産であって、朝廷の所有物ではありません。貴男は政治の混乱のどさくさに紛れて、幕府の物を着服しようというのですか」

「何だと!」

「我々は貴男のようなちゃらんぽらんで腰抜けな人を信じることが出来ません。官軍と一緒になって江戸を火の海にすると嚇されるなら、火の海にして下さい。その代わり、我々も、帝のおられる京師は勿論のこと、薩摩も長州も火の海にして見せます。帰って下さい」

「榎本よ、俺の話を聞いてくれ。もう徳川の時代は終わったのだ。今、俺たちがやれねばならんのは、日本という国を立て直すことだ。その為には辛いだろうが、薩長に従うことだ。お前の率いる軍艦8隻のうちのボロ船を4隻だけを官軍に渡してやろうじゃあないか。明日、品川沖に戻ってくれ。総督府参謀には俺から良く説明しておくから」

「そうは申されても、我々は官軍に従うことは出来ません」

「これは慶喜公の御意向でもある。本来なら海軍総裁の矢田堀殿がお前と話し合うのが筋であるが、矢田堀殿は今、何処にいるのか所在も分からぬ。榎本よ。戻ってくれ。頼む」

 勝海舟は、あの手、この手で榎本武揚を説得した。しかし、武揚は江戸に戻るとは答えなかった。海舟が望むなら、『咸臨丸』を渡しても構わぬとだけ答えた。海舟は愕然として江戸に戻った。

 

         〇

 4月16日、幕府陸軍騎兵隊の桜井大三郎ら20名程が権田村にやって来た。桜井はもと『京都見廻組』の隊員であったが、鳥羽伏見の戦い後、江戸に戻り、江戸城内の警備をしていたこともあるので、忠順とは顔見知りだった。あの馬で登城されるお方が、小栗様かと忠順を尊敬していた大三郎にとって、幕府随一の知恵者である忠順が、上州の山奥の村に隠棲し、埋没してしまっていることが、不満でならなかった。

「小栗様。お久しぶりで御座います。桜井大三郎です。覚えておいでですか」

「ああ、覚えているとも。吹上御庭での乗馬、楽しかったな」

「はい。その吹上御庭のある江戸城も先日11日、官軍に渡されてしまいました。その為、我々は職を失い、思案した挙句、小栗様のおられる権田村を訪ねようということになりました」

「私を殺す為にか?」

「とんでも御座いません。何故、我々が小栗様を・・・」

「冗談だよ。桜井君が剣の達人であることは有名だからな」

「小栗様。あれは我々が、薩摩の後藤に騙されたのです。坂本龍馬は小栗様を尊敬しておられました。その坂本龍馬を殺害したことを私は今でも後悔しております」

 桜井は、後藤象二郎坂本龍馬の手柄を自分のものにしようと、坂本龍馬を自分たち『見廻組』くずれに殺害させた経緯を告白した。あの頃から、総ての回転が狂い出したといえよう。それから桜井は中島三郎助たち同様、江戸の状況を語り、忠順に官軍と戦うことの協力を要請した。

「残念なことに、上様は水戸に隠退なされました。実態は官軍による幽閉です。それを機に、幕府歩兵奉行、大鳥圭介様、海軍副総裁、榎本武揚様他、伊庭八郎、福田八郎右衛門、渋沢成一郎天野八郎らが、各地で決起しました。彼ら幕臣たちは命を懸け、官軍と戦おうとしています。小栗様もこんな山の中に引き込んでいないで、私たちに手を貸して下さい。その頼みにやって参りました」

「桜井君たちの気持ちは分かるが、私は、最早、手を貸すような力を持ち合わせていない。ここで余生を過ごすだけだ」

徳川幕府に御世話になった方々が、官軍をやっけようと集まっているのに、小栗様は何もなさらず、この権田村に埋もれてしまおうというのですか」

「私は御役御免になり、私がお仕えして来た幕府も消滅した。私にはこの権田村での生活が一等、似合っている。このままここに埋もれさせてくれ」

「そう申されましても、江戸では小栗様が官軍に反旗を翻されたという噂が広がっております。このままここにいることは、反って危険です。我々は、これから会津に向かいます。御家来衆を説得し、我々と一緒に会津へ行っていただけないでしょうか」

 忠順は二千人の暴徒を追い払ったことの噂が増幅していることを恐れた。人の噂というものは思わぬ方向へと発展するものだ。

「江戸では、そんな噂が広がっているのか。だが私は官軍に反旗を掲げようなどとは思っていない。また権田村から離れようなどという気持ちも全くない。私の事は放っておいてくれ」

 忠順は桜井大三郎たちの誘いを断ったが、彼らは数日間、高崎藩や安中藩に出かけ、人集めを行い、19日、別れの挨拶にやって来た。忠順は会津へ向かう桜井たちに言った。

「縁があらば、また会おう」

「その日が早く来ることをお待ちしてます」

 忠順は、そう挨拶して会津へ向かう桜井らに金子五十両と草鞋五十足を与え、北へ去り行く若者たちを東善寺の前まで出かけて見送った。

会津でお待ちしております」

 その言葉に、忠順は会津に集まっているという元幕府重臣たちの顔を思い浮かべた。松平容保小笠原長行板倉勝静、安倍正耆ら懐かしい顔ぶれであった。また親交のあった原田種龍、外島機兵衛、神尾鉄之丞、秋月悌次郎、広沢富次郎ら会津藩の優秀な藩士たちのことも思い浮かべた。会津藩主、松平容保は死を覚悟し、武士道を貫徹するつもりでいるのかも知れない。その松平容保は、忠順の応援を期待し、片品村の向こう、尾瀬の近くにいるという。そう思うと忠順は急に会津に行ってみたくなった。その松平容保は鶴岡の庄内藩と密約同盟を結び、仙台藩米沢藩等、奥羽諸藩を、この同盟に加え、薩長をはじめとする西南諸藩を叩き潰そうと動き始めていた。鳥羽伏見の借りは返さなければならぬ。松平容保は燃えていた。小栗忠順は、その松平容保のことが気になり、4月21日、大井兼吉、塚越富五郎、山田城之助の三人を会津に向かわせた。それとなく軍事支援を要請して来ている、もと京都守護職松平容保に接近し、奥羽列藩同盟の進捗状況を把握することと、小栗忠順の深謀を、秘かに容保に伝えることが三人の会津訪問の目的であった。また万一、権田村が官軍に襲撃された場合に備え、権田村からの移動先を、あらかじめ会津に確保しておく計算もあった。これらの密命を受け、大井兼吉、塚越富五郎、山田城之助の三人は中之条から沼田、片品に出て三平峠を越え、尾瀬から檜枝岐、田島を経て、下郷にて、会津藩士、日向内記の出迎えを受けた。そこで会津の状況を確認し、その後、大内宿を通り、会津若松に入つた。桃や山吹の花が咲き、会津の春は美しかった。このような桃源郷にも似た長閑な地方にまで薩長の連中が率いる官軍は攻め入って来るであろうか。二百七十年前の恩讐を胸に、容赦なく、この城下町に砲撃を加えて来るであろうか。大井磯十郎たちは、この美しい会津を、戦乱に巻き込んではならぬと思いながらも、今こうして自分たちが会津に訪れた事が、不幸の種になるのではないかと、気になった。日向内記の案内に従い、会津藩若年寄、原田対馬の屋敷に到着したのは4月25日夕刻だった。そこで三人は原田対馬、横山主税ら会津藩士の歓迎を受けた。まずは原田対馬が三人に言った。

「皆さん、ようこそ会津若松に、お越し下されました。我等、奥羽列藩は、小栗忠順公の深謀あるを知り、歓喜しております。いよいよ薩長に一泡ふかせる時が到来したと、血気盛んに燃えております。上州諸藩の動きは如何で御座るか?」

 原田対馬の問いに大井兼吉が答えた。

「各藩によって、官軍に対する考え方が異なっております。安中藩のように、藩主、板倉勝殷様みずから相手と対等の立場で官軍と折衝する藩もあれば、岩鼻陣屋の崩壊により、ただひたすら官軍の指示に従う、高崎藩や吉井藩のような、藩主のあって無きが如しの藩もあります」

「そうですか。我等、奥州列藩も一応、団結の体勢を整えておりますが、江戸の大久保一翁らから、官軍に従うようにとの指示が来ているので、諸範に若干の乱れがあります」

「確かに上州にも江戸からの沙汰がありますが、それを信じて良いのやら分かりません。何時、小栗の殿に対する官軍の追討令が発せられるか気がかりでなりません。我々は会津をはじめとする奥羽列藩と足並みをそろえるべく計画を進めております。こちらではどのような計画でおられるのか、その機会を教えていただきたく、やって参った次第であります」

 大井兼吉の発言に原田対馬歓喜した。外島機兵衛、神尾鉄之丞、秋月悌次郎らを何回となく、江戸の小栗屋敷に派遣したが、主人不在と何度も断られて来た会津藩にとっては朗報だった。小栗忠順慶喜公に従い、恭順を貫き、主人、松平容保の要請に応じてくれないのだと、その一徹さに誰もが諦めかけていた時だっただけに、権田村からの小栗家の使者の来訪は嬉しかった。原田対馬は、現況を三人に語った。

「現在、我が会津藩は奥州諸藩と列藩同盟を結び、越後柏崎の松平定敬様、長岡藩主、牧野忠訓様とも連絡を取り、その団結は一段と強固になりつつあります。また江戸を脱出した大鳥圭介殿の率いる『伝習隊』、土方歳三殿の率いる『新選組』、古谷左衛門殿の率いる『衝鋒隊』の面々が、半月ほど前から、この会津に入つて来ており、会津武装兵の花盛りです。それに皆さんの所属する『小栗軍団』が加わったなら、官軍など恐るる相手ではありません。まさに天下無敵です」

 原田対馬は熱弁を振るった。その対馬に山田城之助が質問した。城之助は会津の軍備を知りたかった。

「とはいえ薩長はイギリスから高性能の武器を調達しており、大村蔵六とかいう近代兵器に精通した男がいるそうです。会津藩は、それに対してどのような対策をなされておられるのでしょうか?」

 城之助の質問に横山主税が答えた。

「私はここにおられる海老名季昌様とパリ万国博覧会使節団、徳川昭武公の随員として欧州諸国の視察に行っていたのであるが、大政奉還の情報を聞き、去年11月に急遽、帰国した。従って我々は小栗様の足元に及びませんが、海外との交流が深く、海外の最新兵器の調達を始めております」

「それは心強い」

 横山主税に続いて、海老名季昌が更に説明した。

「我々は元プロシア公使館の書記官、ヘンリー・シャネルを軍事顧問に迎え、彼の弟、エドワードの協力を得て、多数の武器を調達しております。イギリスのグラバーは粗悪な武器を持ち込み、高く売っていますが、ヘンリーの持ち込んで来る武器は良く吟味された物ばかりです。これらの物が増えれば、鬼に金棒です」

 欧州帰りの重役たちの話を聞けば、会津藩は洋式兵器の採用を積極的に進めており、その軍備は強力なものになりつつあった。その夜、三人は、原田対馬の屋敷に泊めてもらい、更にいろんなことを確認し合った。海老名季昌、横山主税たちは亥の刻前、打合せを終えて帰って行った。そして、さあ寝ようという前に、原田対馬が言った。

「この屋敷は、我が殿の命により、小栗様をお迎えする為に、先日、増築を終えたばかしです。今や、何時、お越し下されても大丈夫です。一時も早く、会津にお越し下されますよう、小栗様を説得して下さい」

 大井兼吉たち三人は主人、小栗忠順を歓迎する会津藩の面々に深謝し、翌日、会津藩主、松平容保、家老、田中玄清佐川官兵衛神保内蔵助らに挨拶して、権田村への帰路についた。その頃、権田村では観音山の隠居所と小栗家臣の屋敷の建築作業が順調に進んでいた。4月28日、いよいよ棟上げ式の日を迎える運びとなった。棟上げ式の当日の午前中は晴れていたが、午後になると曇って来た。しかし、観音山の天気が悪くなり始めたが、棟上げ式はまるで祭のように盛り上がった。村内は勿論のこと、近在の村からも大人子供たちがやって来て、雨が降って来そうな中、高い屋根から、忠順や大工たちが投げる餅や小金を夢中になって皆が拾った。この建前式が終わると、忠順はほっとした。家臣たちも、これでのんびりと権田村で暮らせるかと思うと、とても喜んだ。ところが翌日29日、中島三左衛門が血相を変えてやって来た。

「殿様。大変です。高崎、吉井、安中の三藩のお侍たち八百人程が集まり、殿様に談判があるという事で、こちらに来る準備をしているとの知らせがありました。どういう事でしょう」

 その報告を聞いて、小栗忠順はじめ塚本真彦ら家臣たちは驚いた。

「何、それは真実か?」

「はい。何でも、数日前から、そのような動きがあったようです」

「うむ。三藩は観音山の建築物を軍備の為の築城と勘違いしているのであろう。どういうことなのか動きの理由を、行って確かめて参れ」

 忠順は側にいた家臣、沓掛藤五郎と大井磯十郎に命じた。命じられた二人は急いで高崎、吉井、安中の三藩が集合している里見に出かけて行った。大井磯十郎は安中藩の顔見知りの星野竹三郎がいたので、代表者は誰かと聞くと、高崎藩の宮部八三郎だと教えてくれた。そこで藤五郎と磯十郎は宮部八三郎の所へ行って、質問した。

「これから権田村に来られると伺いましたが、何の用向きかで参られるのか、それをお教え下さい。権田村としても、お迎えするにあたって、何か準備しておくことが御座いましょうか」

「権田村におられる小栗上野介殿に直接、談判せねばならぬ用件が御座いまして、明日、伺う予定です。準備しておいてもらう事など御座らん。談判の内容については、明日、上野介殿に直に申し上げる。よって、汝らに話す事は何も無い。帰って、そう伝えよ」

 八三郎の態度には取り付く島が無かった。その様子を確認すると、藤五郎と磯十郎は急いで、権田村に駈け戻った。二人が里見の集まりの状況を報告すると忠順は考えた。何故、今まで親しくして来た譜代大名、高崎藩主、松平輝照、安中藩主、板倉勝殷、吉井藩主、吉井信謹が、同じ譜代の上野介に大勢の兵を差し向けるというのか。3月初め、官軍、東山道鎮撫軍は何の咎めもせずに中仙道を通過して行ったではないか。なのに、どういうことか。見ず知らずの官軍の命令で、三藩の主たちが動くというのはおかしい。薩摩の西郷吉之助の要求により、勝海舟が、上様の命令だと偽って、三藩に追討令に従えと指示したのか。それとも、海舟の個人的な恨みで、宿敵、上野介をこの世から葬り去ろうと、巧妙な陰謀を企てることにしたのか。いずれ明日、分かる事だ。忠順は覚悟した。

 

         〇

 翌月は太陰暦の閏月であった。その為、4月と5月の中間に閏月が加わった。その閏4月1日、高崎、安中、吉井の三藩の使者が、東山道鎮撫軍の命令を受けたといって大勢の兵を引連れて権田村にやって来た。小栗忠順はその集団を東善寺の本堂の前で待った。王政復古の大号令以後、天皇が親政を行うことを発表し、朝廷に従属する大名が増えたことは確かだった。幕府の敗北が明白になった以上、諸藩の大名は困惑しながらも、官軍に従うしか方法が無かったのかも知れない。やってきた三藩の使者はそれぞれに名を名乗った。その使者の名は以下の通りである。

「高崎藩」宮部八三郎、菅谷次兵衛、大野八百之助

安中藩」星野武三郎、福長十兵衛、星野閏四郎

「吉井藩」山田角右衛門、黒沢省吾

 その代表、宮部八三郎は東善寺本堂の前に立つ元幕府重臣小栗忠順に向かって丁重に挨拶した後、申し述べた。

東山道総督府より、江戸からの回文にて、我等、三藩に本書による申し入れがありました。御一読の上、御回答をいただきたく参上しました」

 宮部八三郎は回文の本書なるものを差し出した。

「拝見致す」

 忠順は、その書面を読んだ。何とそれは先月22日付の『追討書』だった。その内容は次の通りであった。

小栗上野介、近日、その領地、上州権田村に、厳重なる陣屋を相構えたる上に、砲台を築き、容易ならざる企てあるやの注進が諸方よりあり、聞き捨て難し。よって深く探索を加えしところ、その逆謀、判然たり。上には天朝に対する不埒至極、下にも主人、慶喜恭順の意に背くものであり、その追捕の儀、各藩に申付ける。よって各藩は国家の為に同心協力し、忠勤に抽すべし。万一、手に余るようなことあらば、直ちに本陣に申し出られよ。さすれば先鋒隊をもって一挙、誅滅致すなり。

 右の趣旨をもって御達しを申し入れ候。急々、これに尽力あるべく行動せよ。

  四月二十二日

   東山道総督府執事

    松平右京亮殿

    板倉主計殿

    松平鉄丸殿

 右回覧の上、各藩申し合わせ、追捕致すべくものなり。:

 忠順は、一読して激怒した。『追討書』で自分は完全に朝敵にされてしまっていた。即刻、捕縛せよとの東山道総督、岩倉具定の指示であるが、裏で西郷吉之助と勝海舟が命令しているに相違なかった。江戸を離れ、慶喜の恭順にならい隠遁し、権田村に腰を落ち着け、一農民として生きようと考えていた忠順にとって、余りにも厳しい『追討書』であった。この『追討書』を受け取り、三藩の藩主たちは悩んだことであろう。その悩んだ末に行動がこれなのか。忠順は使者8人に言った。

「各々方は近傍に住んでいるなら分かっておろう。観音山のこの普請は、恭順の為、江戸の屋敷を引き払い、権田村に移住する我々の屋敷と権田村発展の為の学校、役場、病院などの建築工事である。陣屋や砦の普請では無い。砲台の構築など、全くもって身に覚えのないことである。私が上様から罷免され、隠居の身として過ごしていることは、各々方の主人もお分かりであろう。私が朝廷に対して敵対しようとする陰謀があると見受けられるか?」

「いいえ、そうとは思えませんが・・」

「そうだろう。私は天朝に逆らうような事はしていない。自分の持ち山を開墾し、移住者たちが幸せに暮らせるようにと、その住居を建造しているのに、要塞や砲台を構えているなどと誤解も甚だしい。今から村内を案内するから、とくと御覧あれ」

 忠順が怒りをこめて言うと、宮部八三郎は悪びれずに掛け合った。

「我々は総督府からの回文を受け取ってから、権田村内を秘かに調べさせていただいておりましたので、案内していただかなくても、結構です。天朝に背くなどと疑ってはおりません。でも何分にも東山道総督府からの御達しですので・・・」

「ならば上野介に天朝に背く意思なしと申し出るのが、お主らの役目で御座ろう。私を捕縛するというなら、藩主自らここに出向くよう伝えよ。そうでないと、今までの親しき関係が、今後どのように変化するのか、分かっておるであろうな」

 忠順の自信に溢れた言動に三藩の使者たちは動揺した。二千人近い暴徒を打破ったという『小栗軍団』が権田村以外に潜んでいる可能性がある。三藩の使者たちとしては、迂闊に忠順を捕縛することは不可能だと読んだ。だが役目を果たさねばならぬ。宮部八三郎は震えながら言った。

「しかし、二千人の暴徒を退散させた武器については確認が終わっておりません。何んでも、暴徒を退散させるのに、大砲を使用したとのことですが、その大砲だけでも証拠の品として差し出していただけないでしょうか。我々も何らかの形で、役目に出向いたことを証明致しませんと、面目が立ちません。ことを穏便に済ますには、それが良い方法と思われますが・・・」

「申される通り、暴徒を退散させた大砲がある。だがその大砲は外国から輸入したものでなく、駿河台の屋敷に飾っておいた日本製の骨董品の古い大砲じゃ。それで良いなら持つて行くが良い。『追討書』にある砲台に使えるような外国製の大砲では無い。今から東善寺の脇の倉庫から引き出すから、しばし待て。それを持ち帰り、上野介が恭順謹慎していることを藩主と総督府に伝えよ」

 忠順は、そう言ってから大井磯十郎、荒川祐蔵、多田金之助らに東善寺の倉庫内にある武器を庭に運び出させ、三藩の使者に差し出した。大砲1門、鉄砲20挺、槍18本、刀剣14振りであった。これらを確認すると、安中藩の使者、星野武三郎が言った。

「これだけあれば、証明になるでしょう」

「うん、そうだな」

 宮部八三郎は、星野に頷いてから、忠順に向かって更に要求した。

「小栗様。我々、これらの品をお預かりして帰ります。但し、我々の説明だけでは納得していただけない場合も考えられますので、ご子息、又一様に御同道願いたいのですが、良いでしょうか」

「異存は御座らぬ。ついでに『追討書』にあるような砲台が観音山にあるか、又一と一緒に普請現場を確かめて帰ってくれ」

「ははーっ。では失礼させていただきます」

 そう言って頭を下げた宮部八郎らを忠順は見送った。小栗忠道は父の指示に従い荒川祐蔵と共に観音山の普請場所を案内し、その後、高崎城へと向かった。三藩の兵隊が引き上げてから、忠道の許嫁、鉞子が、何故、忠道を同道させたのだと泣き喚いた。忠順はこの時になって、証人として差し向けた息子、忠道が罪人にされてしまうのではないかという不安に掻き立てられた。そんな不安を抱いている夕刻、会津に派遣した大井兼吉、塚越富五郎、山田城之助が権田村に戻って来た。彼ら三人は、不義の薩長を撃退すべく行動を始めている会津の盛り上がり様を語った。会津は、幼帝の側近の奸物、薩長を排除すべく、奥州諸藩と『奥州列藩同盟』を結び、官軍との戦闘体勢に入つているという。奥羽鎮撫総督府との抗戦を全く恐れていないというのだ。忠順は、それを聞いて、塚本真彦以下、小栗家の用人、二十数名を集め、権田村が決して安心出来る場所では無いことを説明し、今の内から縁者を頼り、避難場所を決めておくよう指示した。そして夜中に、母、邦子や妻、道子たちに、直ぐにでも会津に向かえるよう準備しておけと命じた。翌2日、小栗忠順は塚本真彦、沓掛藤五郎、多田金之助、佐藤銀十郎を里見まで様子見に向かわせた。だが誰も直ぐには戻らなかった。忠順の母、邦子が心配した。

「又一らは上手に申し開きが出来たでしょうか。三藩の使者たちは、お前に厚意的であったようですが、東山道総督府の連中は、そう甘くはないかも知れませんね」

「母上。心配はいりませんよ。又一はしっかりしています。必ずや総督府の責任者を説得し、真彦たちと笑顔で戻って参ります」

「そうであってくれると良いのですが・・・」

 妻、道子が母を励ましてくれたが、忠順は不安であった。あの勝海舟薩長に抱き込まれたとあっては、彼らの敵が自分であることに間違い無かった。上様同様、如何に恭順謹慎していようと、薩長としては血祭の相手が必要なのだ。その標的に自分が選ばれたなら、正々堂々と対峙し、薩長の悪逆非道がどんなものであるか、後世に語り継ぐのも、また男の生き様であるかも知れぬ。昼過ぎになって銀十郎が帰って来た。

「大変です。又一様は高崎城下の官軍出張所に連れて行かれ、高崎藩の者が又一様に同道して、総督府の部隊長のいる行田まで連れて行かれるかもしれないとのことです」

「何だと。高崎城で『追討書』の内容は冤罪であると弁明し、直ぐに許され、戻って来るのでは無かったのか」

 銀十郎の言葉を聞いて忠順の顔色が蒼ざめた。

「真彦はどうした?」

「塚本様たちは高崎藩の官軍出張所に又一様をお戻し願いに行きましたが、行ったままで御座います」

「何と、そういうことか」

 忠順は『追討書』に追補の儀、各藩に申しつけるとあった文面を思い浮かべた。自分自身の『追討書』の文面に対する理解と三藩への思いが甘かったと反省した。忠順は忠道たちのことが心配でならなかった。待っても待っても、忠道たちは戻って来ない。忠順は居ても立ってもいられなくなり、夕刻前、三之倉の全透院まで、忠道たちの安否を調べさせる為、藤七たちを走らせた。すると直ぐに藤七たちが真っ青な顔をして戻って来た。

「殿様。大変です。又一様はじめ塚本様たちまで、官軍に捕らえられ戻って来ないとのことです」

「むむっ。何てことに」

 忠順は自分の代理として、息子、忠道を高崎に出頭させたことを後悔した。迂闊であった。このようになることは予想出来ないことでは無かった。三藩の使者たちの丁重さに、つい、うっかり油断してしまった。こんなことになるなら、忠道を高崎にやるのでは無かった。会津や信州、越後の諸大名に呼びかけ、官軍と徹底抗戦すべきであった。苦悩する忠順を見て、荒川祐蔵が言った。

「殿。又一様たちは我々の手で、必ず救出致します。三藩の知人の力を借り、何とか救出致します。殿がここに、これ以上いることは危険です。今夜のうちに奥様たちを連れて、会津へ逃げて下さい」

 荒川祐蔵は忠順に権田村からの脱出を勧めた。しかし、忠道たちが戻らぬ以上、権田村を去るわけにはいかない。忠道の許嫁、鉞子に会わせる顔がない。それに夢を果たすまで何時までも一緒にいようと契り合った塚本真彦とも何処までも一緒にいたい。忠順は急いで脱出の準備を進言する祐蔵に答えた。

「忠順は、ここに残る。母上や道子たちが無事、会津に辿り着いた事を確認してから、会津へ向かう。それまで何としても、又一たちを救出してやらねばならぬ」

「敵が欲しているのは、殿の御命です。これ以上、権田村にいるのは危険です。殿がいなくなったら日本国はどうなるのです。日本国が分割されるようなことがあっても、殿は生き残るべきです」

「日本国には優秀な若者たちが沢山いる。日本国の未来はその優秀な若者たちが引き継いでくれる。その基礎は既に築いて来た。今、私が欲しいのは高崎の官軍に捕らえられている又一たちだ」

 忠順の言葉に、荒川祐蔵、大井兼吉、塚越富五郎たち家臣は死ぬ覚悟が出来た。主人は死ぬ覚悟でいる。死ぬ覚悟で、又一様たちを救出するつもりだ。忠順は思った。多分、総督府は忠道の弁明や三藩の意見など無視して、捕縛に来るであろう。こうなったら、忠道たちを救出して逃げるしかない。忠順は再び小栗家の用人たちを集め、本日の状況を説明し、それぞれ縁者を頼るなどして、明日から権田村より離散するよう指示した。忠順の説明を聞いて、権田村にて、官軍と一戦を交えようと申し出る者もあったが、何処に行っても謹慎一途に努める事だと家臣に命じた。結果、その夜のうちに別離の挨拶に来る者も現われた。また権田村に残ると言い張る者もいた。塚本真彦の妻、万希も、こう言って残ることを主張した。

「夫は何処までも、殿様とご一緒するのだと日頃から申しておりました。自分の夢は殿様とご一緒だと。ですから私たち家族も夫同様、夫が戻るのを待ちます。私たち家族を、何処までもお連れ下さい」

「ならぬ。お前は母子と共に縁者を頼り、権田村から離れよ」

「では夫の顔を一目、見てから、甘楽の七日市藩の保坂の家に逃げることに致します」

「そうか。では真彦が戻ったら、直ぐに七日市に向かえ」

 忠順は真彦が何を思い、何を考えているのか分かっていた。真彦は自分と共に同じ夢に魅かれて、何処までも一緒に同じ夢を見ようとしているに違いなかった。真彦の妻との話が終わると、山田城之助と猿谷千恵蔵が現れた。

「明日はいよいよ高崎の官軍出張所を襲撃し、又一様たちの奪還ということになるので御座んすね」

「早まるな。今は引き下がるしかない。無念であるが、会津へ向かおうと思うので、お前たちには、その案内をして欲しい。また塚本の家族を甘楽の七日市まで案内して欲しい」

 てっきり明日、高崎の官軍出張所を襲うものと思っていた城之助と千恵蔵の二人はびっくりした。城之助たちは慌てた。早川仙五郎にこの内容を伝え、武井多吉と塚本の家族を甘楽まで護衛をするよう多吉のいる信州小野山に走らせた。そして、誰と誰が忠順に同道するかなどの詳細を、深夜に及ぶまで、忠順と一緒になって相談した。

 

         〇

 閏4月3日の朝、小栗忠順は名主、佐藤藤七を呼び、昨夜遅くまで家臣と相談した結果を説明した。

「兎に角、幕府が崩壊し、世の流れが、官軍歓迎に向かっている。この流れがどの方向へ進んで行くか、今のところ分からない。だが官軍が江戸城を占領したとなると、幕臣関八州にいることは危険だ。かくなる上は会津に避難し様子を見ることにする。ついては、これからこの村を離れるので、後のことを頼む。会津に入るまで中島三左衛門たちを借りるぞ」

「あっしも着いて参ります」

「何を言っている。お前は権田村に残り、村人を守れ。私に仕えていたと分かっても、知行地の名主として上野介に従っていただけであると答えれば、咎めは受けまい。お前は家業の酒造りに専念し、私が再びここへ戻った時、『瑞龍』を飲ませてくれ」

「殿様!」

 忠順が言い聞かすように命じると、藤七は涙を流した。忠順はそれから、会津行きの準備を始めた。荒川祐蔵、佐藤銀十郎、池田伝三郎、大井磯十郎、渡辺太三郎ら家臣と母、邦子、妻、道子、養女、鉞子をを連れて、中島三左衛門と山田城之助に道案内させ、先ずは知り合いの中之条近くの横尾村の高橋景作の所へ向かうことにした。しかし、出発の準備に時間がかかった為、翌4日の出発となった。万一のことを考え、朝、一番で上ノ久保の『紙屋』に行き、人に気づかれぬよう、女たちを百姓姿に変装させた。それからの身重の道子を連れての移動、4日中に大戸まで行きたかったのであるが、亀沢までしか進めなかった。仕方なく大井兼吉の親戚、大井彦八の屋敷に一泊した。その翌5日の朝、皆で朝食を済ませ、さあ出かけようとしているところへ、名主、佐藤藤七が馬を走らせて追いかけて来た。大井彦八の家の庭先で馬を降りた藤七に忠順が訊ねた。

「どうした。又一が戻ったか?」

「いいえ、昨日の申の刻過ぎ、高崎藩の者と官軍の御役人様が権田村にやって来て、殿様に明日、高崎の官軍出張所へ出頭せよとの御命令です。殿様が何処にいるのかと御役人様に追求され、我々村人は難儀致しました。狩りに出かけて夜には帰ると説明し、何とか難を逃れました。今日、迎えが来ることになっております。殿様が、このまま姿を消されると、又一様は行田まで連れて行かれ、又一様のお命に係わることになるかも知れません。どうか村にお戻りになり、高崎に出頭し、逆心の無い事を総督府にお伝え下さい。皆の命がかかっております。お願い申し上げます」

 忠順は藤七の言葉に苦悩した。会津に落ち延び、松平容保榎本武揚らと一緒になって、官軍に立ち向かえば勝算はある。息子、忠道や真彦らを見捨てるか。それとも取り戻しに行くか。どうする。忠順は思案した。ふと鳥羽伏見の戦いで、江戸に逃げ帰った元将軍、徳川慶喜の面影が頭に浮かんだ。自分は、あの時、上様を罵倒したが、ここで逃げたら上様と同じだ。自分には上様と同じような卑怯な真似は出来ない。愛国一直線、単独、総督府に対抗するしかない。忠順は覚悟した。

「分かった。私は戻り、高崎へ出頭する」

「それはなりません。それでは殺されることになります」

「その通りです。行かないで下さい。むざむざ殺されに行くようなものです」

「ここは心を鬼にして、会津に向かうべきです」

 荒川祐蔵や大井磯十郎、池田伝次郎らが、口々に反対した。だが忠順は家臣たちの言葉に耳を貸さなかった。

「又一たちを見殺しに出来ない。殺されらそれが私の運命だ。止むを得ない。母上らを頼む」

 忠順は処刑されるかも知れないのを覚悟で権田村に引き返し、高崎に出頭することを決めた。ならばと忠順と一緒に会津に行く予定であった荒川祐蔵、大井磯十郎、渡辺太三郎の三人も残ることに決めた。忠順は妻、道子に言った。

「後から又一と共に会津へ行く。大事な身体だ。呉々も自愛せよ。母上や鉞子をよろしく頼む」

 その言葉に道子は大粒の涙を流した。母、邦子も泣きっ面をした。忠順は、母に一礼し、藤七が乗って来た馬にまたがると、母、邦子、妻、道子、娘、鉞子及び、佐藤銀十郎、池田伝三郎、堀越富五郎ら家臣と中島三左衛門、山田城之助たちの顔を一人一人じっと眺めてから、振り返ることなく、亀沢から坂道を下って行った。その後ろ姿を見送り、忠順の母、邦子たちは悲嘆の涙を流した。そんな小栗家の女たちを、叱るように城之助が言った。

「こんなところで、まごまごしていては敵に捕まります。道子様。早く駕籠にお乗り下さい」

 城之助は傳馬継ぎ手の親分のようなもので、四人の駕籠担ぎと二つの駕籠を用意していて、忠順の母、邦子と身重の道子を駕籠に乗せると、若い鉞子を歩かせ、吾妻方面に向かった。道子は駕籠の窓から、遠ざかって行く権田村を振り返り、歌を詠んだ。

 母子連れ 急ぎて遠くへ逃れ行く

 緑あふるる 吾妻の道

 途中、鼻曲辰蔵が現れ、中之条方面は既に官軍の兵が動き始めているという。そこで、一行は進行方向を変更し、大戸を通らず、萩生から左に逸れ、草津方面へ向かうことにした。忠順が一旦、権田村に戻り、高崎に出頭する仕度をしていると、塚本真彦の妻、万希が部屋に顔を出したので、忠順はあっけにとられた。

「何をしているのだ。早く逃げんか。何時、お前らを捕まえに官軍の兵が来るかも知れぬのだぞ」

「でも、夫が戻るまでは」

「馬鹿者。危険を察知せよ。真彦のことは、私に任せて、早く逃げろ。この私とて、何時、帰れるかどうか分からぬ。真彦と共に帰らぬ人になってしまうかも知れぬ。早く逃げろ」

 残酷とは知りながらも、帰らぬ人などと口に出してしまった。忠順が真彦の妻、万希を叱り飛ばしている時、早川仙五郎が武井多吉を連れて現れた。

「遅くなりました。城之助兄貴に頼まれて駈けつけました。何なりと用事を仰せつけ下さい」

「おう、多吉。良い所に来てくれた。真彦の家族を七日市藩まで、送り届けてくれ」

「甘楽の七日市で御座んすね。承知しました。任せておくんなせえ」

「よろしく頼む」

 忠順は多吉に三十両を渡し、塚本真彦の母、妻子らを七日市に送り届けるよう依頼した。依頼を受けた多吉は、真彦の妻、万希と真彦の借家に行き、母親や子供に旅仕度をさせると、権田村から地蔵峠を越えて、松井田、一之宮を経て、七日市に向かう計画を立てた。権田を出発し、岩水の道を通過する時であった。烏川の流れの向こうの道を三ノ倉から東善寺へ向かう千人程の大軍の行列が進んでいるのが見えた。見つかってはならぬ。多吉は背を低くして歩くよう、真彦の家族に指示した。しかし、中尾の手前で対岸の石津近くを進軍していた兵士数人が移動中の万希たちに気づいた。その兵士たち数人が川を渡って来るのが見えた。多吉と仙五郎は慌てた。真彦の家族7人を相聞川の畔の篠藪に押込み、身を隠させた。10人程の笹竜胆の肩印を付けた官軍の兵士が、ドドッと走って来た。彼らは相聞川の橋を渡って、ちょっと行った所で行き、引返して来た。

「逃げられたか」

「逃げ足の速い奴らじゃ」

「急いで、隊に戻ろう」

 兵士たちは急いで権田へ向かう行列に再び戻って行った。多吉と仙五郎はほっとした。全員無事かと確認すると、真彦の娘、二人の姿が無かった。よく見ると、幼女二人は祖母と母親によって川底に沈められ死んでいた。

「何ていうことを」

「泣くので首を絞めて、川に沈めてしまいました」

「騒ぐので、そうするしか仕方無かったのよ」

 真彦の母、美津と妻、万希は狂人のような険しい顔をして涙をこぼし、多吉たちに訴えた。多吉は身を守る為に、そう決断したのだと思わざるを得なかった。このまま中尾に進むのは危険だと考えた多吉は相聞川の上流を目指した。天平へ向かう途中で、藤蔓取りをしていた下田喜十郎に会った。喜十郎は多吉だと気付くと深く頭を下げた。すると真彦の母、美津が多吉に言った。

「多吉さん。私は、足が悪いので、万希たちと先に行っておくれ。二組に分かれれば、追っ手にも気づかれず、何とかなりましょう。私はこのお方に案内してもらい、後から行くから・・」

「お母様。それはなりません。一緒に行きましょう」

「私が足手まといになって、追っ手に捕まったら大変な事になります。真彦の為にも、後取りである高彦を何としても、保坂の家へ届けなければなりません。私は大丈夫です。先に行きなさい」

「お母様!では千香と一緒に後から来て下さい」

「いいえ、私がお婆様と一緒します」

 万希の姪の志佐が、千香に代わって、後から行くと申し出た。

「志佐ちゃん。駄目よ」

「大丈夫。千香ちゃん、先に行って」

 志佐の真剣な顔を見て万希と千香は志佐の意見に同意した。

「では志佐ちゃん、お婆様を頼みましたよ」

「はい。任せておいて」 

 万希は母と別れるのは不安だったが、姪の志佐に任せた。多吉は下田喜十郎に金子を渡し、土塩村蟹沢の武井家に美津と志佐を後から連れて来るよう依頼し、先を急いだ。城之助に万希と志佐の案内を頼まれた喜十郎は、思わぬ仕事が跳び込んで来て喜んだ。お武家様の案内となると、ちゃんとした身形をしないといけないと思った。

「奥様。安心しておくなせえ。あっしが、これから土塩村まで案内させていただきまさあ。でも、こんなみすぼらしい身なりではまずいので、家に帰って着替えて来んべえ。直ぐに戻って参りやす。それまで、ここで待っていておくんなせえ」

 喜十郎は、そう言い残して、坂道を下って行った。ところが、何時になっても喜十郎が戻って来ないので、美津は不安になった。あの山師は、きっと自分たちがいることを追っ手に密告する為に、権田村まで知らせに行っているに違いない。だから時間がかかっているのだなどと、余計なことを考えた。考えれば考える程、不安が増した。ならば、皆の足手まといにならぬよう、ここで、潔く死ぬのが一番だと思った。思い詰めた美津は咄嗟に、眠つている孫娘、志佐を懐剣で刺し殺した。そして、自分も首を斬って自決した。村に帰り、身なりを整え、一刻ほどして戻って来た喜十郎は、美津と志佐の死体を見て、ひっくり返った。

「何故、もう少し辛抱して待っていてくれなかったのか」

 下田喜十郎は悔やんだ。山賤姿でも良いから、直ぐに案内すべきであったと反省した。喜十郎は仕方なく二人の死体を地蔵峠近くの山中に葬った。そんな事になったとは知らず、塚本万希親子は武井多吉たちに案内され、地蔵峠を三輪久保、木馬瀬まで下り、そこから細野ヶ原に登り、四百年の老木、庚申桜を目指した。そこの庚申坂を下れば、多吉の実家だった。多吉が実家に着くと、何事かと父、新兵衛に追求されたが、城之助の知り合いで城之助に頼まれたと言って誤魔化した。だが弟の荒次郎には本当の事を話した。その間、主人公、小栗忠順はどうなっていたか。その忠順は、大事件に遭遇し、官軍兵士に捕縛されていた。ここ数日の三藩の取り調べに対し、岩倉具定と勝海舟に、小栗上野介の追討を命じられていた大音竜太郎は三藩の〈小栗に私心無し〉の前日の報告を認めなかった。大音竜太郎は部下の豊永貫一郎に三藩の代表を呼びつけ、小栗忠順を捕縛するよう命じた。豊永貫一郎は三藩に伝えた。

「三藩は陽に府名を奉ずるも、陰に小栗父子を庇護するに似たり。さあらば総督府本部は併せて三藩を追討せざるを得ないと言っておる。如何に致すや」

 この言葉に三藩は驚き、5日の朝から、各藩二百名の兵を引き連れ、三ノ倉の『全透院』に集合することを決めた。そして5日の朝、官軍兵二百名と共に三ノ倉に集合すると、総人数八百名程になった。この八百名程の兵を従えた総督府の豊永貫一郎、原保太郎らは軍議の後、午の刻、東善寺脇の小栗屋敷に向かい屋敷を取り囲んだ。官軍の部隊が正面に並び、吉井藩の部隊が妙義山側に、高崎藩の部隊が榛名山側に、安中藩の部隊が笹塒山側に並び、四方を完全に包囲した。それから東山道鎮撫軍の豊永貫一郎が藤井九蔵、宇田栗園をを従え、屋敷の正面に立って叫んだ。

小栗上野介忠順。天朝に対し逆謀を企てし事、明白なり。よって三ノ倉の屯所に出頭させるべく引き立てに参つた。大人しく縛につけ」

 その声を聞いて、荒川祐蔵が表廊下に出て、対応した。

「我らがお殿様に逆謀などとは言いがかりで御座る。我々には全く身に覚えのない事で御座る。何かの間違いでは御座らんか?」

「この村の観音山あたりの陣屋の構えといい、お主ら用人の数といい、先般の大砲、鉄砲等の数といい、『衛鋒隊』の古谷作左衛門との密約といい、最早、弁解の余地は無い。小栗上野介をここに出せ」

「お殿様は只今、読書に耽っておられます。お殿様は徳川様から罷免されて以来、この権田村に隠居されて、晴耕雨読の毎日を過ごされておられます。逆謀などと、根も葉もないことです」

 荒川祐蔵の反論に豊永貫一郎は立腹した。何が何でも小栗上野介を捕らえよと、大音竜太郎に命じられている豊永隊長は顔を真っ赤にして怒鳴った。

「つべこべ言わず、小栗上野介をここに出せ。逆謀の総てを小栗又一、塚本真彦らが自白したのだ」

 すると大井磯十郎が廊下に現れて、荒川祐蔵と共に反論した。

「又一様が、そのような真実でないことを申される筈がありません。それは貴男方の作り話です」

 小栗家の家臣たちと豊永貫一郎の口論が続いた。安中藩の星野武三郎らは、小栗側が正しいと思っていたが、その口論を黙って聞いていた。状況は小栗側が正しくとも、官軍に従う武力を前に対峙する小栗側が完全に不利であった。荒川祐蔵、大井磯十郎、渡辺太三郎たちは、捕縛の使者を一歩たりとも屋敷内に入れてはならぬと、今にも抜刀しそうな形相であった。その口論のやりとりを障子の向こうの部屋で聞いていた小栗忠順は立ち上がり、障子を開けて言った。

「早まるでない。ここはお寺だ。斬り合いをするのには墓地があり、都合が良かろうが、尊い人の命を奪っても何の得にもならない。幕府が大政を奉還し、王政復古が決まった以上、天朝の御命令であるか定かではないが、ここは官軍の指示に従おう」

 そう言って屋敷の奥から現れて小栗忠順を見て、豊永貫一郎、藤井九蔵らは一瞬、身構えた。刃向かえば、八百名の兵で殺すつもりだった。忠順は大軍を前にして堂々として落ち着いて、怒りに燃える家臣を制止させた。だが荒川祐蔵は納得しなかった。

「とは言いましても、殿が何故、捕縛されなければならないのですか。その理由が分かりません」

「祐蔵。大勢の前で見苦しいぞ。この上野介とて、鎮撫が目的の鎮撫軍が、何故、恭順の日々を送る自分に『追討令』を発し、諸藩を嚇し、殺しを目的に攻めて来るような事をうるこの有様は納得出来ない。またその理不尽に加担する諸藩の気持ちも・・・」

「ならば、縛につけなどという命令は取り消させるべきです」

「祐蔵。そんなことを言っても無駄だ。理由など無くて良いのじゃ。徳川幕府勘定奉行、陸軍奉行、海軍奉行、外国奉行を歴任したというだけで、その理由は充分、成立するのだ。事、ここに至っては大人しくお縄を頂戴して朝廷による寛典を待つことにしよう」

 この忠順の態度に豊永貫一郎、原保太郎らは安堵した。豊永貫一郎は藤井九蔵、宇田栗園らに小栗忠順らの捕縛を命じた。

「この四名を捕らえよ」

 忠順らは全く抵抗すること無く捕縛された。その様子を見ていた安中藩の剣道指南役、根岸宣教は日本の開国と近代化に努めて来た忠順が捕縛されるのが辛くてならなかった。もし、この場に山田城之助がいたなら、部下を引き連れ、官軍に対抗し、小栗忠順を連れて逃亡したであろうに。何処で何をしているのか、城之助の姿はあたりに見当たらなかった。かくて小栗忠順、荒川祐蔵、大井磯十郎、渡辺太三郎の四名が捕らえられた。小栗忠順は寸毫の抵抗もすることなく平然と縛についた。捕縛された四名は、それから三ノ倉の『全透院』の屯所に連れて行かれた。かくて官軍の他、三藩の兵を招集した八百名にも及ぶ大掛かりな捕り物は終了した。

 

         〇

 閏4月6日、小栗忠順は三ノ倉の『全透院』で朝を迎えた。母上たち小栗の家族や塚本真彦の家族は、無事、避難出来たであろうか。忠順は荒川祐蔵、大井磯十郎、渡辺太三郎とお頭無しの干物と香の物がおかずの朝食をいただきながら死を覚悟した。他の三人も、頭の無い鯵の姿を見て、首を刎ねられる事の示唆であると感じ取ったであろうか。朝食が済み、屯所での詮議があるのではないかと待っていると、部屋の障子が開き、ドドッと官軍兵入って来て、四人を縛った。その後、小栗忠順主従は三ノ倉西境の烏川水沼河原に設けられた刑場に引き出された。空が晴れて周囲の緑の山々が美しかった。昨日の夕刻前から今朝方までに組立てられた竹矢来に囲まれた刑場の周囲には、小栗上野介の処刑を一目見ようと、沢山の人たちが集まっていた。その人たちが注目する中、小栗忠順、荒川祐蔵、大井磯十郎、渡辺太三郎の四人は後ろ手に縛られ、河原に敷かれた莚の上に座らされた。四人の座る前には四ッの穴が掘られていた。刑場の周りには小栗忠順を信奉する者たちが、忠順を取り戻しに来るのではないかと、槍や鉄砲を持った守備兵ががっちり、その警備に当たっていた。巳の刻になると総督府巡察使、原保太郎が処刑の発声を行った。

「只今より、朝廷に対する大逆の企て明白につき、総督府の命によって、ここに捕らえた四人の公開処刑を始める」

 続いて豊永貫一郎が渡辺太一郎の罪状を読み上げ、そして訊ねた。

「渡辺太一郎。この者、主人、小栗上野介の悪事に迎合し、奸逆を働きたること明白につき、天誅を加え、梟首致す。渡辺太一郎。何か言い残すことは無いか」

 太三郎は何も答えなかった。次の瞬間、吉井藩の藤井正次郎が、その太三郎の首を刎ねた。太三郎の首は目の前の穴の中に転げ落ちた。群衆は呆然とした。それを確かめてから、豊永貫一郎が大井磯十郎の罪状を読み上げ、太一郎と同様に訊ねた。

「何か言い残すことは無いか?」

「殿様をはじめ、我々には何の罪も無い。弁解も出来ぬまま処刑されるのは実に無念である」

 磯十郎は豊永貫一郎や原保太郎を睨みつけた。その睨んだ顔を高崎藩の小田喜一郎の太刀が容赦なくとらえた。鮮血が刑場に飛び散つた。磯十郎の首も目の前の穴の中に転げ落ちた。続いて豊永貫一郎が荒川祐蔵の罪状を読み上げて、訊ねた。

「何か言い残すことは無いか?」

「我が国の発展の為に尽力して来られた我が主人に賊名をきせて追討するお前らの非道は、ここで見ている人たちによって永遠に語り継がれるであろう」

 そう言い終わった瞬間、安中藩の浅田五郎作が荒川祐蔵の首を斬り落とした。祐蔵の首は穴に落ちず、五郎作の前に転がった。

「うあわっ!」

 五郎作は後ろに、すっ転んでガタガタ震えた。それを見て、群衆がどよめいた。続いて、忠順の番が来た。豊永貫一郎が小栗上野介の罪状を読み上げて、訊ねた。

「何か言い残すことは無いか?」

 豊永貫一郎に問われると、忠順は静かに答えた。

「母と妻子及び村人たちに罪は無い。天朝の寛典を望むと伝えてくれ」

 そう言い残して忠順は瞑目した。その忠順を斬首役の原保太郎が、待ってましたとばかり、おもむろに刀を抜き、忠順の首を斬り飛ばした。ところが一刀目は、緊張しすぎて斬り損じた。二刀目でやっと忠順の首を斬り落とすことが出来た。穴に入らず河原に転がった忠順の首は両眼をカッと見開いて、権田村の方を見詰めて動かなかった。時に忠順四十二歳。余りもの残酷さに誰もが目をおおった。その小栗忠順の首は油紙を被せられ、鄭重に白い布で包まれると、舘林に送られることになった。首の無い胴体は家臣の胴体と共に権田村の者に運ばれ、東善寺に葬られた。翌7日、高崎官軍出張所に捕らえられていた小栗忠道、塚本真彦、沓掛藤五郎、多田金之助の主従四名は何の取り調べも無く、高崎市中を引き回しされた後、これまた高崎城内の牢屋の前で斬首された。無残悲壮であった。かくして梟首された小栗忠順親子の首級は舘林に送られ、9日、舘林城二の丸にて岩倉具貞、具綱兄弟の首実験後、近くの泰安寺に移され、その後、法輪寺の奥田明山によって手厚く埋葬された。

 

         〇

 それから数日後の閏14日、山田城之助は小栗忠順のことが心配になり、野反池から引き返して来たが、時既に遅く、権田村に忠順父子の姿は無かった。城之助は溜息をついた。『小栗塾』の塾生、三浦桃之助が、城之助が権田村を離れてからの経緯を説明した。

「4月5日、高崎の官軍と三藩の兵が来て、小栗先生たちを捕縛し、三ノ倉の屯所に連れて行き、翌6日、水沼の河原で、小栗先生たちを斬首しました。7日には高崎で又一様たちが斬首されました。官軍は殺人鬼集団です。彼らは日本国を統治して来た徳川幕府の権威を、天皇という観念的優位感をもつて覆し、国民を騙し、討幕を完全に成功させようとしているのです。それ故、真実を知る幕府の重要人物の抹殺に奔走しているのです」

「何と遅すぎたか。常に日本国のことを考え、未来の為に努力されて来られた殿様を何故、官軍は斬首抹殺したのか。何故、邪魔者扱いしたのか。余りにも残酷すぎるでは無いか。無抵抗の人を殺害する。それが新政府なのか。何故、国家有為の英傑才人を薩長は、危険人物として、この世から消し去ったのか。尊王を語る官軍を俺は憎む」

 城之助は唇を噛み締めた。そこへ武井多吉が現れ、塚本真彦の妻子を送り届けた報告をした。逃げる途中で、真彦の母親と娘、姪などを失ったと説明した。

「下田の喜十郎の奴が、身形格好を考えなければ良かったんだが・・」

「皆、苦労したんだな」

「うん。塚本様の奥様と娘さんと赤ン坊は荒次郎と中山の兼吉さんと一緒に、無事、七日市の保坂家へ送り届けたから、安心してくれ」

「そうか。それは良かった。じゃあ、残るのは会津行きだな。まだ道子様たちは逃避の途中だ。何としても、道子様たちを会津まで送り届けないとな。三左衛門さんたちが首を長くして待っているに違いねえ。野反池へ向かうぞ」

「合点承知之助!仙五郎、お前も一緒に行くんだ!」

「はい」

 風の多吉と風魔の仙五郎、煙の城之助の三人は吾妻の道を岩菅山と苗場山の間の空を目標に、かって安中藩の駈けくらべで遠距離を走つた時と同様の競争をした。身重の 小栗道子夫人は山田弥平次の所に厄介になり、中島三左衛門たちに案内され、夫、忠順たちの身を案じながら、野反池を通り、中津川沿いを、秋山郷に向かっているに違いなかった。城之助は、お殿様の死を知らぬ人たちのことを想像し、走りながら、大粒の涙を流した。自分の命を助けてくれたあの人情味のある恩人、小栗忠順の無念を思うと、涙が流れて止まらず、風に飛散した。

               《 完 》

 

 

       ⁂ あとがき

 私の故郷で語られて来た小栗忠順の生涯を小説にしてみた。私としては勝海舟明治新政府によって、その存在と功績を消されてしまった小栗上野介を、何時の日にか、この世にあぶり出し、陽の目をあてて上げたいと思っていたからである。徳川幕府に対する至誠を貫き通したが故に悲惨な打ち首という運命を辿った忠順の最期は、まさに悲劇である。小栗公が亡くなってから5ヶ月後の慶応4年(1868年)9月8日、元号は明治に改められた。元号を着せ替える事によって、365年の平和を守って来た徳川幕府は完全に過激派の革命政権に移行され、明治新政府が誕生した。結果、新政府は皇室を至上のものとし、日本国を神国とする思想をもって突き進むことが是とされるようになった。その為、過激派政府は世界列強との領土的侵略の戦争に巻き込まれ、愚かな失敗を繰り返し、今日に至っている。もし徳川慶喜大政奉還をせず、小栗上野介の意見を素直に聞き入れていたならば、日本はきっとアメリカに似た民主主義国家になっていたであろう。この小説を書き終えてからも私の思いは、その後、関係した人々が、どうなったかなど、書きたく仕方がない。だがそれは他人に任せて、自分が伝えておきたいことだけを、ここに列記する。

1、小栗夫人のその後について

 会津へ向かった道子夫人らは、秋山郷を経て、新潟経由で会津に辿り着き、道子夫人は無事、6月14日、南原の野戦病院で女の子を出産し、名前を国子とつけた。その後、東京に出て、『三井組』の三野村利左エ門の世話になり、平穏に暮らした。明治19年(1886年)小栗夫人、道子が亡くなると、遺児、国子は大隈重信夫婦の保護を受け成長し、矢野貞夫と結婚し仕合せに暮らした。

2,大隈重信の小栗への人物観

 佐賀藩士だった大隈は江戸幕府の役人が去った後、長崎に赴任し、イギリス公使、パークスらとの各国との交渉に活躍した。大隈はパークスから小栗の優秀さを聞いていたが、江戸に来て、何事も小栗の手がけていた仕事を追いかけているようで、小栗の偉大さを再確認した。明治の近代化は小栗上野介の構想の追従に他ならない。そう言って小栗の遺児、国子を娘同様に面倒を見た。重信夫人は小栗の従妹、綾子であり、幼い時、小栗家で育ったのだと言われている。

3,前島密の小栗への人物観

 前島密神戸港開港に伴い、兵庫奉行支配役となり、頑張っていたが、新政府により江戸に戻され、官軍接待役などを務め、大久保利通に、江戸遷都を建言した。その内容は江戸が蝦夷地を含めると日本国のほぼ中央であり、江戸湾は、最新船舶工場のある横須賀に近く、外交上とても便利である。江戸には外国公使館が沢山あり、西洋風迎賓館がある。江戸には役所の建物や大名の藩邸などがあり、政府要人の生活がしやすい。外国語学校なども多く、近代化が進んでいる。江戸城天皇をお迎えし皇居にすれば、そのまま首都になるという建言だった。総てが小栗が勧めていた都市構想であった。小栗の家臣の研究所『開明研』には軍港計画や鉄道計画、郵便船舶などの資料が沢山、残されていて、前島はそれを利用させてもらったという。

4,渋沢栄一の小栗への人物観

 渋沢栄一徳川慶喜小栗忠順によって、慶喜の弟、昭武とフランスに留学させてもらい、小栗を日本の大蔵大臣と呼ぶフランスの連中に世話になり、小栗の外交力を外国にいて実感した。また留学前に小栗と語り合ったことを外国で一つ一つ修学した。明治元年(1868年)11月3日に帰国した渋沢は、小栗に帰国報告が出来なかったことを、残念がったが、その後は、小栗の計画していたことなどを実行に移した。渋沢は小栗公がこれから見るべき日本国の景色を教えてくれたと、常々、言っていたという。

5,福沢諭吉の小栗への人物観

 諭吉は小栗と遣米使節団員として、渡米し、その後、小栗と何度か会い、互いに信頼し合い、思想的にも共通点が多かった。人の上に人を作らず。小栗同様、将軍の上に、別人を据えた連中が好きになれなかった。彼は大隈重信にこう言った。

「小栗公が存命なら『慶應義塾』に匹敵する『権田義塾』が上州に出来ていたであろうよ」

 大隈は、それを聞いて、負けじと『東京専門学校』を早稲田に開設した。

6,東郷平八郎の小栗への人物観

 東郷はイギリスに留学し、イギリス人が小栗の名を知っていたのでびっくりした。明治26年(1893年)のハワイ王国のクーデターの時、東郷は日本人保護を理由に巡洋艦『浪速』でハワイに駈けつけたり、その後、日清戦争日露戦争で活躍した。明治45年(1912年)夏、東郷元帥は小栗の遺族を自宅に招き、小栗忠順への感謝の御礼をし、こう述べた。

「ロシアとの日本海海戦で日本が完全な勝利を得ることが出来たのは、小栗さんが横須賀造船所を作っておいてくれたお陰です。もし横須賀の日本国の軍艦及び海軍設備の充実が無かったなら、日本はロシアの属国とされていたことでしょう」

 東郷の気持ちが分かるような気がする。

7,小栗忠順の首級について

 1年後の明治2年(1869年)春、会津から権田村に帰った中島三左衛門と塚越房吉は4月6日、高橋村の人見宗兵衛、渡辺忠七らの協力を得て、舘林の『法輪寺』から、小栗忠順公と小栗忠道の首を盗み出し、忠順の首級を権田村東善寺に、忠道の首級を下斉田に埋葬した。

8,小栗の愛馬について

 小栗忠順が江戸から乗って来た愛馬、『疾風』は小栗がフランスのナポレオン3世から贈られたアラビア馬で、日本古来の馬とは全く違っていた。その愛馬を小栗家の財産没収の折に、総督府役人の原保太郎が見付けて、良い馬だと騎乗したところ、『疾風』が突然、暴れ出し原保太郎は落馬し、地面に叩きつけられ、足を骨折した。原はこの時の落馬の怪我により、一生、右足が不自由になってしまったという。

9,徳川埋蔵金について

 小栗が隠した埋蔵金の在処については、佐藤藤七、山田城之助ら数人しか知っていない。妙義山と角落山の何処に金貨込めの場所があるのか、未だ不明である。妙義山の洞窟に隠した武器や埋蔵金は群馬事件の折、武井多吉によって運び出されたと言われているが、定かではない。また山田城之助が鎌倉井戸に埋めていたという噂もある。その他、権田村から少し離れた木間瀬の墳丘と栗屋の墳丘に小分けにして移し替えられたという話もある。

 いずれにしても小栗忠順にまつわる話は尽きない。もう一つだけ読者に伝えておきたいことがある。それは敵は外にいるだけでなく、内にもいるということである。人の世は妙である。親しい間柄のようでありながら、相手の優秀さや美しさに嫉妬憎悪し、相手を抹消しようとする悪者がいる。坂本龍馬は江戸に遊学し、脱藩し、自由人となり、日本を洗濯したいと活動し、薩長同盟を成功させ、『船中八策』を創作し、大政奉還を実現しようと考えた。その案を後藤象二郎に横取りされ、暗殺者に消された。本作品の主人公、小栗忠順も、遣米使節団の一員としてワシントンまで行っていないのに行ったかの如く振る舞う勝海舟に嫉妬され、殺されたといえよう。勝海舟が高輪の薩摩藩邸で西郷隆盛に会った時、官軍に徳川慶喜でなく小栗忠順を抹殺するよう依頼したが、『敬天愛人』の言葉を好む西郷は、それを良しとはしなかった。むしろ小栗上野介を残すべき幕府の逸材であると判断していた。その西郷隆盛も四候会議の下準備をし、大政奉還と王政復古の発布に尽力し、東海道先鋒軍参謀として、勝海舟と会談し、江戸城無血開城を実現させた。だが明治4年(1871年)参議になり、会議に出たが、やっていることの総てが、小栗上野介の論じていた廃藩置県から始まる政治改革なので、若者の自由に任せることにした。明治6年(1873年)海外視察旅行を終えて帰国した大久保利通は、その留守中政府に不満を持った。特に対朝鮮問題をめぐる意見で、西郷と大久保は対立した。西郷は朝鮮派兵に反対し、江戸城無血開城と同様、自分が大使として朝鮮に赴き説得すると主張した。だが岩倉具視大久保利通に反対され、西郷は参議を辞任、鹿児島へ帰った。大久保は鹿児島に密偵を送り、農民一揆と士族の反乱を引き起こさせることにした。そして反乱軍に持ち上げられた西郷は政府軍によって殺される結果となった。小栗上野介と同様、内なる仲間に殺害されたのである。その西郷は勝海舟との会談でこう言った。

「おいは見ての通り、金もいらぬ。名もいらぬ。命もいらぬという人間なれば、その相手が同様でなければ、共に国事を談ずることは出来ぬ。お前さんはどうかな?」

 海舟は勿論、同じだと答えたが、振り返れば、真逆の人間だった。真逆だからこそ交渉がまとまったのかも知れない。海舟は新政府に尻尾を振り、外務大丞、元老院議官などいろんな役職を与えられたが、結局は能力が無く、望むような地位を得ることは出来なかった。もと幕臣たちに、腰抜け、薩長の手先、犬とまで罵倒されながらも、徳川慶喜同様、長生きをした海舟の人生も、西軍からすれば、東軍の代表として、海舟を祭り上げることが必要であったのであろう。東軍の代表を立てることによって、策謀の歴史を美化し、自分たちの野心、嫉妬による逆謀を正当化し、前政権支持者たちからの怨恨を薄めようとしたに違いない。薩長の過激派からすれば、小心の貴公子、徳川慶喜を京に引きずり出し、たった二年で将軍の座から引き下ろすことは、いとも簡単であったであろう。徳川幕府は日本国が島国であるが故に、隣国と海で隔てられており、自国の言語と文化を持ち、政権掌握から265年、異国からの侵略を受けず、紛争にも巻き込まれずに平和を維持し続けて来た。ところが航海技術が発達し、黒船に乗ったペリーの来航により、日本人はショックを受けた。オランダ人以外の異国人に恐怖を覚え、追い払おうとする者もいれば、大型船に感激し、異国の文化文明に興味を抱く者もいた。そんな時代の中にあって、小栗忠順は日本が世界の潮流から取り残されていることに気づき、日本国の富国強兵に誠実に取り組み、若者を海外に派遣し、彼らの活躍と日本の明るい将来を夢に描きながら時代の渦に巻き込まれて消されてしまった。明治維新後、薩長の愚昧な武士たちが維新回転の功績は自分たちにありと、お手盛りの官位をつけ、大きな顔をしてのさばっていたが、多分、小栗上野介は地中で笑っていたであろう。

「あいつらは自分たちのして来たことを正当化し、自分たちや自分たちに協力した幕臣を拡大評価して語るであろう。だが新政府を軌道に乗せる為には、私が進めて来たことの仕上げを、幕府の費用で海外に派遣した連中たちの力に頼らざるを得ないであろう。そして出来上がったものが、私の願いを形にして語ってくれるであろう」

 小栗忠順。彼は日本国の為に数多くのものを築いてくれた。小栗忠順の名と業績は明治維新の官僚たちによって消さたが、彼の情熱は今も熱っぽく、私たちの心の中に生き、明日への道を照らし続けてくれている。