信濃守水野元知の恋

 正保元年(1644年)5月29日生まれの水野元知は、安中藩主となった備後守、水野元綱の息子で、寛文4年(1664年)10月26日、父、元綱の隠居により、2万石をそのまま襲封した。若き元知は温厚であり、素行正しく、絵画や和歌を好み、士民への愛隣限りなく、藩主としての人気は、相当なものであった。しかし、徳川家康の母、伝通院を出した水野一門の中では、中央のことに疎く、四代将軍、家綱にも、余り重要視されていなかった。寛文6年(1666年)秋には病気療養ということで、百ヶ日の暇を賜り、上野国安中城にて休養の日々を送った。江戸では、そんな元知のことを、退屈しのぎに、縷々、城下の美女を呼んでは、歌舞音曲などに大事な毎日を消失していると噂する者もいた。その元知が江戸屋敷に戻る日も明日となった。

「これ、八重。近こう寄れ。明日、元知は江戸屋敷へ向かって出立せねばならない。そなたと過ごした日々が、今では夢のようだ」

「お目出度う御座います。八重は嬉しゅう御座います。本当に夢のような日々でした。お殿様が、おいであそばされた時は、妙義の山が紅葉し、秋風が桑畑を吹き抜けていたというのに、今は梅の花が安中城下を一面に埋め尽くし、お殿様の全快を祝っているようです」

 元知は窓を開け、城下に咲く梅の花を眺望した。

「そうよのう。美しい梅の花だ。この梅の花は厳寒の冬に耐えて咲いたからこそ、このように白く冷たく美しいのであろうのう」

 八重も窓外を見て。

「そうかも知れません。碓氷の梅の花は、雪の後に雪以上の白さをもって、花開くのです。それにしても、八重を愛しんで下されましたお殿様と、お別れしなければならないかと思うと、八重は悲しくて仕方ありません」

 八重は涙ぐんだ。

「これ、泣くでない。元知まで悲しくなるではないか」

「申し訳、御座いません」

 元知は尚、佇んだままでいた。

「美しい梅の花だ。御用絵師、狩野探幽に教えてやりたい程だ。探幽に会ったら、安中へ来るよう話してみよう」

「それは本当で御座いますか?」

「本当だとも。探幽と元知は、余の方が年下だが、絵の道に於いては友人なのじゃ。探幽の桃山的画風は、江戸屋敷の襖絵を見れば、如何に素晴らしいか、八重にも判るであろう。八重も行くか、江戸屋敷へ?」

「滅相も御座いません。そんなことをしたなら、奥方様に叱責されます」

「奥が怖いか。奥はそんなに怖くは無いぞ。奥は鬼では無い」

「分かっております。でも八重は江戸屋敷へは行かれません」

「何故?」

「八重は年老いた両親と離れることは出来ないのです。八重をこんなにも大きく成長させて下された両親と離れることは、両親に死を命じる事に等しいからです」

「八重は親孝行であるのう。両親をくれぐれも大切にするが良い」

「はい」

 元知は再び絵に話を転じた。

「ところで八重。そなたは探幽の絵を見たいと思うか?」

「はい。しかし、もっと見たい絵が御座います」

「もっと見たい絵?それは誰の絵じゃ」

「尾形宗謙さまの絵に御座います」

「尾形宗謙?」

 元知の知らぬ絵師であった。

「ご存じありませんか。彫物師、吉田春頼さまのお話によりますと、尾形宗謙さまの絵は、あの俵屋宗達の流れをひく、古典大和絵、そのものということです。大和絵は日本人の心です。吉田春頼さまは、そう仰有られました」

「あの春頼がのう。まこと本阿弥光悦の作品にしても、確かに日本人の心がある。江戸に行ったら、その尾形宗謙とやらの話を探幽にでも聞いてみよう」

「ところで、お殿さま。良庵さまが、お見えになりませんようですが、如何がなされたのでしょう?」

「先に江戸に向かわせたのじゃ。元知が江戸に着く前に、江戸屋敷の整理をさせる為じゃ」

「左様で御座いますか」

 八重は淋しそうな顔をした。元知は、その八重の様子に不審を感じた。

「良庵に何か?」

「いいえ。何でも御座いません」

「江戸に行ったら、良庵に会うが、伝言することがあるなら、余に申すが良い」

「いいえ。本当に何でもないのです」

「八重。そなた、余に何か隠しているな?」

「いいえ、何も」

「その顔を見れば直ぐに分かる。安中での百ヶ日を共に暮らしたそなたのことは、元知、誰よりも分かっておるつもりじゃ。隠さずに申すが良い。如何したのじゃ」

 すると、八重は恐る恐る・・・。

「では申し上げます。良庵さまの御診察で、八重に赤子が・・・」

「何、赤子が!」

「はい。お殿さまの赤子に御座います」

「おお、それは目出度い事じゃ。して、男か女か?」

「まあっ、お殿さまったら。それはお生まれになってからでないと、何とも申し上げられません」

「ウハハハ、そうであったな」

 元知は大声で笑った。

「それにしても、目出度い事じゃ。両親に知らせてやったか」

「いいえ。お殿さまのお許しをいただいてから、両親に知らせようと思い、誰にもこのことは、知らせておりません。御存知なのは、良庵さまのみに御座います」

「左様か。では直ぐに両親に知らせるが良い。そして元知が江戸にいる間、村に戻り、静養するが良い。与左衛門に命じ、そなたに暇を出そう」

「有難う御座います」

 八重は再び涙ぐんだ。それを労うように元知は、八重を抱いた。

「嬉しいか八重。そう泣くでない。お腹に悪い。泣くのを止めて、直ぐ村に帰る仕度をするが良い。そして元気な赤子を産んでくれ」

 八重は涙顔で抱きしめる元知を見詰めた。

 

         〇

 同じ頃、江戸屋敷では、元知の妻、萌と水野家に仕える医師、中里良庵とが、元知についての密談をしていた。

「良庵。明後日、元知さまが帰府されるという知らせがあるが、噂の八重という女も一緒か?」

「そのような事、成されますまい」

「好いた女なら,愚かな元知さまの事、江戸屋敷にまでも連れて来るであろう」

「いいえ。八重の事を思案しておられればこそ、殿は八重を安中に置いて来るでありましょう。恋する男は用心に用心を重ねるものです」

 それを耳にすると、萌は嫉妬深い目をして良庵に問うた。

「八重という女は、元知さまが夢中になる程、美しいのか?」

「はい。真実、八重は上野の国一番の器量良しです。吉良上野介殿も、八重を横恋慕されているとか聞いております」

「ならば八重を上野介義央殿に差上げてしまえば良いではないか」

「そうは成りません。殿にとって、八重は大事な宝なのです」

 それを聞いて萌の顔が痙攣した。八重の事を大事な宝と聞いて、カッとなったのだ。

「愚かな事。信濃守元知ともあろう男が、百姓娘を宝などとは、情け無や」

 良庵は同調した。

「誠に御座います。元知さまには、これから徳川幕府の為に、頑張っていただかなければなりません。その為には、奥方様の力をして、八重なる女を追放させねばなりません」

「そして追放した八重を、上野介義央殿に差上げるというのか」

「左様に御座います。このことを一石二鳥と云うのでしょう。それに萌様。その八重は・・・」

 そこまで言って、良庵は慌てて、己れの口を噤んだ。萌は、それを不審に思った。

「八重が如何がしたのじゃ?」

「いいえ。何でも御座いません」

「今、何か云おうとしたではないか。良庵、そなた、この萌に隠し立てして良いと思うのか」

「いいえ、そんな」

「ならば申せ。八重が如何がしたのじゃ?」

 良庵は緊張して、周囲の様子を窺ってから、小さな声で萌に伝えた。

「驚かれますな。八重が殿の御子を懐妊なされたのです」

「何じゃと!」

 良庵は慌てず、落着いて、同じ言葉を反復した。

「八重が、殿の御子を懐妊なされたのです」

「ヒーッ!悔しい」

 萌は逆上した。

「萌さま。心落着けて下さい。興奮は御身体に悪う御座います」

「これが落着いていられようか。良庵。本多文蔵を呼べ。そして直ちに安中に馳せ、八重なる女を斬捨てるよう命ぜよ」

「それは成りません」

「止めるでない。大学水野監物忠善の娘、萌をさしおいての百姓娘のこの所業、許されて良いと思うのか?」

「いいえ」

「ならば水野家の用心棒、人斬り文蔵を呼べ。そして八重の五体をバラバラにしてしまうのじゃ」

 良庵は血相を変えた。

「成りません。事が御公儀に知れれば、御家は断絶するかも知れません」

「家が断絶?愚かな事を申すな。百姓娘の一人や二人、殺害したとて、御公儀がこの水野家を断絶させる事など無い」

「そうは申しましても、百姓は国に宝です。御公儀が、その百姓の涙を捨てておく筈がありません」

「また宝か。馬鹿らしい。ならば良庵、そなた、この萌に、じっと我慢していろと云うのか。それとも、石見銀山をして、そなたが八重を殺害してくれると云うのか」

 萌は気味悪く笑った。良庵は、ゾッとした。

「滅相も無い。この良庵に、そんな恐ろしい事が・・・」

「医術を身につけたそなたであれば、人の生死は、そなたの意のまま。八重を殺すのも簡単であろう」

「お許しください。良庵には、そんな恐ろしい事は出来ません」

「では文蔵に八重を襲わせるのだな、良庵」

 良庵は戦慄した。

「はい」

 良庵は震えながら答えた。

 

         〇

 翌々日、水野元知は予定通り江戸屋敷に戻った。家臣たちが表門にて元知を迎えた。

「お帰りなさいませ。殿のお帰りを、萌さま始め、屋敷の家臣一同、心待ちにしておりました」

「そうか。心配かけたな」

 元知は、そう答えて、屋敷に入った。その後、家老の挨拶を受けてから、元知は良庵を部屋に呼んだ。

「失礼します。良庵です。お疲れ様でした」

「うん。中山道二十五里の駕籠に揺られての旅は、実に窮屈であった。良庵のように、気ままに馬で旅出来る者を、羨ましく思った」

「それにしてはお元気で」

「当り前だ。江戸に戻ったのだ」

「思った通り、安中での御静養は、殿の御身体に良薬であったようで御座いますな」

「左様。奥には済まなかったが、安中での百ヶ日、実に健康に良かった。ところで良庵、狩野探幽は訪ねて来なかったか?」

「来た様子は御座いません。明日にでも訪ねて参りましょう。そうそう、昨日、探幽さまの御紹介で、松尾桃青という若者がやって参りました」

「松尾桃青?」

 元知の聞いたことの無い名であった。

「はい。伊賀の生まれで、深川の俳諧師ということです」

「伊賀の生まれで俳諧師?用心せねばならんのう。豊臣の残党かも知れんからのう。しかし、探幽の紹介とあれば、心配は要るまい」

「それは、その通りで」

「話は変わるが、良庵、そなた、尾形宗謙という男を知っているか?」

「はい。知っております。雁金屋という京の呉服商の当主で、東福門院二条家、酒井家、津軽家などに出入りし、大和絵を嗜むとか」

「その絵を見たことがあるか?」

「いいえ。見たことはありません」

「見たことのある人物を知らぬか」

「吉田春頼ならば、見たことがありましょう。春頼は昨年、俵屋宗達の屏風絵を学びに、京まで出かけた男です。日本一の彫物師を目指す春頼にとって、当然、尾形宗謙の絵も、参考に入れたに違いありません」

 それを聞いて、元知は春頼に会って見たくなった。

「では春頼を呼べ」

「吉田春頼は、我々と入れ違いに安中に向かわれたようです」

「安中へ」

「はい。殿が2日前までいらっしゃいました安中へです」

「左様か・・・」

 安中と聞いて、元知は、あの美しい面輪の八重を思い出した。今頃、八重は何をしているであろうか。この元知の事を思っていてくれるであろうか。

「どうか成されましたか?」

「いや、何でもない」

「道中のお疲れが出たのでは?」

「いや。大丈夫だ。ところで良庵、そなたに、ちと聞きたい事がある」

「何で御座いましょう」

「八重のことだ。八重が懐妊したというが、そなたの診察では、どんな様子だ?」

「極めて順調で御座います」

「左様か。余も、江戸屋敷に向かう前日に知ったのであるが、健康な男子が産まれてくれれば良いと願っている。与左衛門に命じ、早速、村に帰した。村での静養の方が、八重も安心出来よう」

「それは良い御処置を。八重も安心して、御出産致しましょう。殿。それより萌さまが『竹の間』にて、殿をお待ちしております」

「そうか」

 元知は正室、萌のいる『竹の間』に向かった。萌は『竹の間』で美しく化粧して待っていた。

「戻ったぞ」

「お帰りなさいませ」

「変わりは無かったか?」

「はい。江戸には何も変わった事は。安中では変わった事があったとのことですが」

「安中で変わった事。一体、何の事だ?」

「おとぼけの御上手な」

「何の事だ」

 元知は知らぬふりをした。事実、何の事か思い当たらなかったのかも知れない。

「八重という女の事ですよ」

「誰に聞いた?」

「誰でも良いでは御座いませんか」

「良庵の奴め」

「良庵は何も萌には・・・」

「ならば誰じゃ」

「噂というものは、誰とはなしに広がるものです。低俗な女とお遊びになるのも良ろしいですが、水野家を穢さぬような御振舞を、お願いします。話に聞けば、その八重という女、百姓娘とか。信濃守水野元知の相手をするような女とは思われませんが・・・」

 元知は、ムッとした。八重のように心優しい娘を何という侮辱か。

「女に高貴も低俗もあるものか。女はあくまでも女であり、女の良、不良は、男に対する思いやり、それで判定されるのだ。そういった面から云えば、八重は身分こそ低くはあるが、最良の女だ」

「まあっ、ぬけぬけと。正妻を目の前にして・・」

「萌の焼餅は、相変わらず治らんようじゃな」

「治る筈がありましょうか。萌以外の女の事を、そう目の当たりに賞賛されて、笑っていられる萌でありましょうか。水野総本家、大学水野監物忠善の娘、萌を、そう馬鹿にして、元知さま、あなたは平気でいられるのですか。萌の父、忠善は、大名の一人や二人、簡単に失脚させることが出来るのですよ」

「余は、萌のそういった権力を傘にしての暴言が大嫌いじゃ。元知に女の一人や二人、いようと構わぬではないか」

「なりません」

「大人物程、女の数が多いものじゃ。萌も大人物の妻であるなら、些細な事を気にするな。もっと大勢に目を向け、大名の妻に相応しく、家来衆の采配に心を使う事じゃ。信用こそ、上に立つ者の力量の尺度であるのじゃ」

「その信用も、八重という女と戯れているようでは、形無しと思われます」

「余は、そなたに申しておるのじゃ。女の五人や六人、ままならぬような男は、男では無い。信濃守水野元知は男であるのじゃ」

「悔しい!」

 萌は涙を流して悔しがった。元知は、そんな萌を可愛く思った。そして優しく尋ねた。

「戻って早々、喧嘩など止めようではないか。それより萌、元朝はどうした?」

元朝は乳母のお藤と一緒に御祖父様の御屋敷です」

「父が戻って来ると知っての事か?」

「あなたより御祖父様の方が好きなのでしょう。御祖父様のお屋敷で、毎日、剣術のお遊びなどなされております。百姓娘と戯れているあなたより、ずっと雄々しいでは御座いませんか」

 萌は皮肉たっぷりに言った。元知は、成長したであろう長男、元朝に早く会いたいと思った。

「男の子らしく成ったであろうのう」

「当然でしょう」

「ところで萌。そなたも、余の悪口ばかり云っておらず、来月にでも安中へ行ったらどうじゃ。桃の花が沢山咲いて、絵のようじゃぞ」

「それは良いかも知れませんね」

「余も行く。元朝も連れて行こうではないか。きっと、そなたも、安中を気に入ってくれるに違いない」

「行きましょう。そして八重なる女にも会いましょう。萌は急に安中に行くのが楽しみになりました」

 元知は萌の事を、嫌な女だと思った。

 

         〇

 彫物師、吉田春頼が、八重の暮らす高梨村に訪れたのは桃の花が咲く以前だった。春頼は縁戚の娘、八重に優しく話しかけた。

「如何じゃ。身体の具合は?」

「順調のようで御座います」

「左様か」

江戸屋敷にお寄りになったのですか?」

「直ぐに取り掛かりたい仕事あったので、立ち寄らなかった。殿がおられたのなら、立ち寄るべきであった。尾形宗謙先生の大和絵などについて、お話ししたいと思っていたが残念じゃ。また近く、お会い出来よう」

「春頼さま。八重は仕合せ者で御座います。春頼さまの御世話で、お殿さまの側近としてお仕え致し、御寵愛をいただき、今、こうしてお殿様の御子が、お腹にいるということは、百姓、源兵衛の娘には、夢のようなお話で御座います。この仕合せが、このまま平穏に続いて欲しいと願っています」

「八重が真実をこめて、殿にお仕えするなら、夢は仕合せのまま続くに決まっている。殿の為に立派な赤子を産むのじゃぞ、八重」

 春頼が、そう言い終わった時、突然、八重の父、源兵衛が駆け込んで来た。

「た、た、大変だ。与左衛門さまが、三人のお侍に庭先で・・・」

 源兵衛が言い終わらぬうちに、覆面をした賊が五人、続いて入って来た。賊将らしき男が、正座している春頼に向かって叫んだ。

「八重という女は、その女か。大人しくここに出せ!」

 八重は息を呑んだ。春頼は土塩村鍛冶屋十兵衛の業物『霧』を静かに引き寄せ、賊将を睨みつけて言い返した。

「何者じゃ。誰に頼まれた。依頼主によっては八重を渡そう」

「問答無用!」

「ならば致し方ない。八重は渡さぬ」

 春頼は八重の身体を脇に避けさせ、そう叫んだ。すると一人の賊が春頼に猛然と飛びかかって来た。

「死ねっ!」

「死ぬのはうぬらだ」

 春頼の返しに、賊が二人倒れた。鍛冶屋十兵衛が鍛えた妖剣『霧』は尚、血を求めて、空を走った。正面にいた一人の賊の喉を突き刺した。

「ゲエッ!」

 賊は恐れをなし、負傷者を引き連れ走り去った。

「畜生。覚えていろ」

「ざまあ見ろ」

 源兵衛が逃げて行く賊を見ながら、跳び上って喜んだ。それから庭先に倒れ伏した与左衛門に気づいて、大声を上げた。

「与左衛門さま。与左衛門さま。しっかりして下さい」

 春頼も駆け寄って与左衛門を起こした。

「しっかりしろ、与左衛門殿」

「春頼さま、大丈夫です。賊はきっと、江戸屋敷からの者です。殿の赤子が産まれることを妬む者の派遣者に決まっています。これからは充分、注意せねばなりません。大丈夫です。春頼さま」

 春頼は源兵衛に命じた。

「源兵衛。与左衛門殿の面倒を絹に・・」

「は、はい。絹、絹!」

 すると奥の方で八重を守っていた絹が、青い顔をして出て来た。

「一時は、どうなるだんべと、おっかなかった。直ぐに傷の手当てをしまさあ。与左衛門さま。羽織と袴を脱いでくんな。羽織と袴に血が・・・」

 絹は八重と一緒に与左衛門の傷口を布で縛り、止血をするなど、応急手当をした。それを見守りながら、春頼が呟いた。

「あの剣さばき、只者では無い。御子上一刀流と拝見したが、一体、誰であろう。もしや?」

 春頼の独り言を聞いて、与左衛門が起き上がった。

「もしや?痛たたた・・」

「動いちゃあ駄目だ。与左衛門殿。静かに横になっていて下さい」

 優しく与左衛門に声をかける春頼に、源兵衛が質問した。

「一体、あいつらは誰なんでえ。春頼さま」

「明確に申し上げられぬが、もしかするとあの賊将は大学水野監物忠善さまの家来、本多文蔵かも・・」

 また与左衛門が起き上がった。

「噂に聞く人斬り文蔵。痛たたたた」

「静かにしているよう、春頼さまが仰有られただんか」

 絹が抑えるのに逆らい、与左衛門は尚も声を上げた。

「畜生。するとあいつらは殿の奥方の手先か。ムムム。嫉妬深い女め」

 与左衛門の言葉に、今まで黙っていた八重が口を開いた。

「与左衛門さま。お殿さまの奥方さまの陰口はなりません。奥方さまを中傷する事は、お殿さまを中傷する事と同じです」

「でも、賊は八重さまを殺そうとしたのですぞ」

 与左衛門は泣いていた。八重の優しい気持ちを思うと、込み上げて来るものを抑えることが出来なかった。

 

         〇

 桃の花が咲いた。江戸屋敷にいた信濃守水野元知は、急いで安中へ向かった。元知の妻、萌が三日程前から、既に安中に訪れているからだ。安中城に着くや元知は、萌に憚ることもなく八重を城に招いた。元知は部屋の窓から、城下に咲く桃の花を眺めながら言った。

「矢張り、安中は良いなあ」

「左様で御座いますか。お殿さまのいない間の八重には、恐ろしい毎日でした」

「何故じゃ?」

「隠さずに申し上げます。お殿さまが江戸にお帰りになられましてから、どなたが差し向けた刺客か判りませんが、二度程、刺客が八重を殺しにやって来たのです」

「何じゃと!」

「二度とも吉田春頼さまに助けられましたが、もし春頼さまがいらっしゃらなかったなら、八重はこうして、お殿さまと、お会いすることが出来なかったでしょう」

「その刺客は誰か判らぬか?」

「判りません」

 元知の顔が曇った。もしかすると萌が送った刺客かも知れぬと、元知は推理した。

「では、これからは、この城中にいるが良い。窮屈であろうが、城中では刺客も、そう易々と八重に近寄れぬであろう」

「はい」

「ところで八重。萌に会ったか?」

「お会いしました。お殿さまのお越し成される前日に城に来るよう、萌さまからの使いが参りましたので、お恥ずかしい身体で、参上させていただきました」

「それで萌は何か申したか?」

「いいえ」

 八重は真実、萌に拝眉した時、萌とは挨拶以外、何も話さなかった。萌はただ〈醜い姿じゃのう〉と言っただけだった。元知は久しぶりに会った八重に言った。

「八重。今日は、そなたと食事をしたい。この部屋に食事の準備をさせた。早速、元知と食事をしよう」

「それは成りません。萌さまに申し訳が立ちません」

「構わぬ。話は、もうこれ位にして食事をしよう」

 元知は、そう言うと、ポンポンと手を打った。すると女中たちが直ぐに食膳を持って入って来て、二人の前に膳を並べた。その女中たちが出て行くと、元知は椀を取り上げ、八重に言った。

「さあ、御飯をいただこう」

「はい」

「懐かしいなあ。八重と共に食事をするのは・・」

 八重は女中時代のことを思い出した。

「では、昔のように八重が御飯を、お口に入れて差し上げましょうか。椀を八重にお貸し下さい」

「身重の八重に甘えて構わぬかな」

「この位の事、大丈夫です。さあ、口を開いて」

 元知は、アーンと口を開いた。その時、八重は、椀の中に何か光る物を発見した。

「あっ。お待ち下さい。御飯の中に、何か入っております。光る物です」

「何じゃ?」

 八重は、その光る物を箸でつまみ上げた。

「縫い針です」

「縫い針」

 元知の驚きの声に、八重は事が如何に重大であるかを感じた。八重は大声で叫んだ。

「誰か、誰か、おらぬか!」

 先程の女中が慌てて駆け込んで来た。

「何事で御座いますか?」

「縫い針が御飯に・・」

 八重の言葉に女中の顔面は蒼白と化した。

「えっ。縫い針が。何と恐ろしい」

 驚き怯え震えている女中を、元知が怒鳴りつけた。

「一体、誰じゃ。余の御飯に縫い針を入れた奴は。直ちに捕らえ、事情を突き止めよ」

「は、はい」

 女中は気でも狂ったように走り去った。元知は驚きに震える八重に言った。

「八重。大丈夫か?」

「大丈夫です。お殿さまこそ大丈夫ですか?」

「大丈夫じゃ。悪かったな、驚かせて。そなたのお陰で助かった。そなたが縫い針を発見してくれなかったら、余はもう、あの世かも知れない。本当に助かった」

 元知は怒りを押し殺し、八重を見詰めた。

 

         〇

 安中城主、水野元知を殺そうとした犯人は萌だった。萌は、今や自分を相手にしてくれない元知を殺害し、息子、元朝安中藩を継がせようという考えだった。事が失敗に終わったことを、萌は良庵から聞いた。

「何、失敗したと」

「はい。八重が椀の中に縫い針が入っているのを発見したとのことです」

「ううっ。あの娘が・・」

 萌は逆上した。高梨村に引っ込んでいれば良いものを、城内に来て邪魔立てするとは。良庵は、そんな萌に冷ややかに言った。

「この事件、どう始末致しましょう」

「いずれにせよ、犯人を捕らえ、処刑するのだ。縫い針を入れた者のいることが公になった以上、犯人を捕らえなければ・・」

「その犯人を八重にしたなら、どうでしょう」

 その良庵の考えを聞き、萌は嬉々の声を上げた。

「おお、良庵。そなたも年に一度は名案が浮かぶものだな。まさに八重は、その犯人にぴったりだ」

「して、その処刑の方法は?」

「憎き八重のこと。最高に残酷な方法を採用しよう。何が良かろう」

「何が、良ろしいでしょうか」

「そうだ。虫責めにしよう」

「虫責め?」

「そうじゃ。虫責めじゃ。毛虫や百足や虱や蜘蛛や蟻を入れた棺桶に八重を入れるのじゃ。そして裸になった八重を、悶え殺すのじゃ。良庵。藩役人に命じ、直ぐ毒虫を集めさせろ」

「はい。しかしながら、悶え殺したその死体は、一体、どうするお積りです?」

「藩主、元知の椀に縫い針を入れた犯人として、藩役人に取調べさせ、毒虫とともに棺桶に入れ、生きながら、その棺桶もろとも、物見杉の下の九十九川へ投げ捨てるのじゃ。八重は身籠ったまま、あの世行きじゃ」

「物見杉の下は、見るも恐ろしい断崖絶壁。あの底知れない深淵の渦巻きに呑み込まれたら、誰であるか、見る影もないでありましょう」

「死体の事は気にしなくても良い。藩主を殺そうとした大悪人。どのような殺し方をしようと、藩主の勝手なのじゃ」

「それも、そうで御座いますな。しかし、この事を元知さまが知ったなら・・・」

「馬鹿者。勿論、元知さまには内緒じゃ。元知さまが萌の命令で八重を殺したと知ったなら、この萌をも殺すであろう」

「まさか、大学水野監物忠善さまの愛姫、萌さまを・・・」

 萌は蒼白い顔をして、畏怖するかのように喋った。

「それは分からぬ。元知は、いざという時、男になるという父の話じゃ。萌を殺すであろう」

「恐ろしい」

「そこで良庵、萌は先に江戸に帰る。そして元知が江戸へ出発してから、八重を殺せ。殺害方法は、先程、話した通り、虫責めじゃ。良いな。元知が江戸へ出発してから、八重を殺せ」

「かしこまりました。では、これで・・・」

 良庵は萌のいる『藤の間』から去った。

 

         〇

 江戸に帰ってからの萌は落着かなかった。安中に残っている元知が、あの八重を愛しているかと思うと、嫉妬の炎が、胸を激しく焼いた。元知が江戸に戻って来る前に、萌は本多文蔵を屋敷に呼んだ。文蔵が現れるのを待ちきれず、イライラした。

「誰かおらぬか。本多文蔵はまだか?」

「ここにおります」

「おお、文蔵。そこに座れ」

「お叱りで御座いますか?」

「勿論じゃ。そなた、二度も失敗したらしいの」

「大変、申し訳御座いません。八重という女には、恐ろしい剣の達人が付き添っております」

「その男は誰じゃ。安中藩に、そのような剣の達人がいる筈が無い。文蔵。そなたの御子上一刀流も、すたれたものよの」

「良庵さまの話では、その男、吉田春頼という男とか」

 それを聞いて、萌はあきれ返った。

「吉田春頼。馬鹿な。春頼は彫物師じゃ」

「ところが彼は馬庭念流の使い手で、元知さまの剣術の師であり、念流樋口道場の四天王と云われた男とか」

「そんな筈が・・・」

 そこまで言って、萌の顔が引き攣った。

「して文蔵。そなたは、おめおめと江戸まで逃げ帰って来たのか?」

「それは、元知さまの使いの者が、八重の村にまでやって来たからです。我々一味の者が顔でも見られでもしたなら、直ちに元知さまの耳に入り、萌さまが刺客を送ったと露見してしいます。ですから、直ぐに引上げるようにと、良庵さまに云われました」

「ならば仕方ない」

「それにしても萌さま。元知さまの八重への惚れようは人一倍ですな。あんな美女なら、文蔵だって独り占めにしたくなります。安中での百ヶ日、元知さまは毎日、八重を抱いていたのでしょうな。江戸に帰る途中、元知さまの駕籠と擦れ違いましたが、随分、急いでいました。萌さまが安中で八重を虐めるとでも思われていたのでしょうか」

 すると、萌はカッとなった。

「何を云うの。萌は安中城下の桃の花を見る為に、安中に出かけたのです。八重を虐める為ではありません」

「左様で御座いますか。ならば元知さまの御心配は尚更、許されませんな。萌さまを、お疑いになるとは・・・」

「悔しい!」

 萌の形相は狂気に近かった。文蔵は余分な事を喋ってしまったと、慌てた。

「落ち着いて下さい。萌さま。今日は元知さまが、お帰りになる日。取り乱さないで下さい」

「取り乱すも乱さないもあるものか。こうなったら、元知もろとも殺してやる。萌は知元など、最早、要りはしないのだ」

「萌さま。人を殺めることは、この文蔵、一人で沢山です。元知さまを失ったら、大学様が大事にされている水野一門の中から、萌さまの御一家が消滅してしまいます」

「この萌の嫉妬の為に、わが水野家が断絶しようとも構わない。萌は萌の命を、この嫉妬に懸けるのです」

「おやめ下さい。萌さま。それは他愛のない女の意地です」

「他愛ない女の意地でも、萌は炎となって八重同様、元知を地獄へ送ります。今頃、八重は毒虫に苦しめられながら、物見杉の下の断崖絶壁の上から落下しているに違いない。元知の可愛い赤子を身籠りながら。フフフフ・・・」

 萌は文蔵にそう説明して、不気味に笑った。

 

         〇

 夕刻近くになって、信濃守水野元知は江戸屋敷に到着した。良庵も一緒だった。元知は屋敷に着くなり、萌に会いに行った。萌は八重と異なった美しい女であり、元知にとっては愛しい妻であった。元知は安中城下の桃の花を観た感想を萌に訊きたかった。元知は萌のいる『竹の間』に行った。

「萌。今、帰ったぞ」

 そう言って、部屋に入ろうとした瞬間、横合いから、キラリと何かが一閃した。元知は慌てて退いた。

「殿。お覚悟めされ!」

 妻の予期せぬ行動に元知は思わず身震いし、背筋を伸ばした。

「何を致す。気でも狂ったか。よせ。危ない」

「死ね!」

 常軌を逸した萌の懐剣が、元知の肩先を襲った。元知は肩に刃を受け、傷を押さえながら叫んだ。

「ううっ、やめろ!」

「えいっ。死ね、死ね!」

「止めろと云ったら、止めぬか。そのようなか弱い手で、馬庭念流を心得る元知を殺せると思うのか」

「殺してみせる」

 元知は萌の腕を捩じ上げた。

「ああっ」

 元知は叫ぶ萌の細腕から懐剣を奪おうとした。その際、誤って暴れる萌の腕に傷をつけてしまった。元知は慌てた。

「大丈夫か、萌。短刀を捨てよ。誰かおらぬか。誰かおらぬか!」

 その声に女中が慌てて駆け込んで来た。

「何事で御座いますか」

「奥が乱心した。取り押さえよ」

 すると萌は女中たちに向かって言った。

「乱心ではありません。この浮気者を萌の手で成敗するのです」

「落ち着け、萌!」

「言い訳は成りませぬ。安中での毎日、八重という女に夢中であったというではありませんか。萌という妻がありながら、浮気など許されましょうか。安中に行って良く判りました。あなたはただ水野家の繁栄のみを考えていれば良いのです。それを八重などという百姓娘と。考えただけでも汚らわしい」

「汚らわしいと思うなら思うが良い。しかし八重は何もかも美しい娘じゃ」

「憎らしい!」

 萌は頭に血が上り、カッとなって、また元知を襲おうとした。元知は素早く萌から懐剣を奪うと、萌を抱き締めた。

「萌。血が・・」

「汚らわしい。萌に触れるな」

 激昂する萌に女中が駆け寄った。

「奥方様。傷の手当てを・・・」

 騒ぎを聞きつけ、良庵が駆け込んで来た。

「如何、致しました?」

「殿が御乱心なされました。そして萌を・・」

 萌は腕の傷を良庵に見せた。良庵は、そこにいた女中に命じた。

「本多文蔵を呼べ。本多文蔵を直ちに・・・」

 元知は良庵が女中の言葉を聞いて、勘違いしている事に気づいた。

「良庵。慌てるな。乱心したのは余ではない。萌だ。萌が乱心しているのじゃ。萌が余に切りかかって来たのじゃ。早く萌を取り押さえよ」

 すると萌は首を振って、良庵に訴えた。

「いいえ。良庵。殿が御乱心なされて、萌を殺そうとなさったのです。その証拠に、ほれ、殿が懐剣を手に握っているでは御座いませんか」

 萌がそう訴えている所に、女中に呼ばれて、本多文蔵が走つて来た。

「良庵さま。お呼びですか」

「文蔵。殿が御乱心なされた。懐剣を握っていて危ないので、傷つけぬよう取り押さえてくれ。そして申訳ないが、地下牢に入れてくれ」

 それを聞いて、元知は憤った。

「良庵。気でも狂ったか。余の握つている懐剣は、萌の物だ。萌が切りつけた懐剣を、余が取り上げたのだ。乱心は萌だ。間違うでない。萌を、萌を取り押さえよ」

 しかし、誰も元知の叫びを聞き入れなかった。

「お許し下さい」

 そう言うや、文蔵は主人、元知に跳びかかり、その手から懐剣を奪うと、元知の水落ちに一撃を食らわせた。元知は激痛を受け、気を失った。萌は、それを見て狂喜した。

「でかしたぞ、文蔵。直ぐに殿を地下牢へ」

「かしこまりました」

 文蔵は肩に傷を負った元知を背負い、その場を去った。誰もいなくなったのを確認して、萌は良庵に訊ねた。

「ところで良庵。例の件は上手く行ったか?」

「大成功に御座います」

「さぞ苦しがったであろうな」

「それは、もう」

「フフフ。これで元知は、また萌、一人のものじゃ。フフフ・・」

 その萌の笑いを見て、良庵は、女の嫉妬と独占欲を、おぞましく思った。あれ程までに元知を殺したいと言っていた萌であるのに、女心は分からない。

 

         〇

 萌の実家から派遣され、水野家に仕えている内応の典医、中里良庵は、この事件を直ちに三田屋敷の大学水野監物忠善に報せに走った。

「大殿。一大事で御座います」

「何事じゃ。騒々しい」

「元知さまが御乱心なされました」

「何!元知が乱心じゃと」

江戸屋敷に於きまして、突然、元知さまが萌さまを切りつけられました」

「あの大人しい元知が萌に切りつけただと。嘘じゃろう。信じられぬ」

 水野忠善は良庵の言葉を訝った。良庵は焦った。

「真実、信じられぬ事で御座います。だからこそ、狂乱なされたと、誰も申しております」

「一体、何故じゃ。どうしてそんな事に?」

「実は安中の奥女中、八重なる者が、元知さまの食膳の椀に縫い針を入れたので、萌さまが、その女に刑罰を与えると申されると、何を怒ってか、元知さまが萌さまに切りかかったので御座います」

「我が娘、萌にか」

「はい」

 経緯を聞いた水野忠善に怒りが込み上げて来るのが、良庵に分かった。

「それで萌に怪我は?」

「はい。元知さまの刃を受けて、右腕に大きな怪我を・・・」

「何じゃと。それは大変じゃ。命に別状は無いだろうな?」

「はい。今のところ、大丈夫と存じます。しかし、上手に治療しないと、切り口から毒でも入り、命取りになるかも知れません」

「馬鹿者。ならば良庵。こんな所に来ていて良い筈が無かろう。とっとと帰り、我が娘、萌の看護をせい。わしは老中らと相談し、元知の処分について考える」

「申し訳、御座いません。良庵、直ちに神田の屋敷に戻り、萌さまの看護をさせていただきます」

 そう言い、頭を深く下げ、立ち去ろうとする良庵に、忠善は付け加えた。

「急ぐのだぞ、良庵」

「はい。駕籠を飛ばして。小半時以内にお屋敷に帰ります」

 良庵は神妙な面持ちで答えると、神田へと引き返した。その良庵を見送ってから、水野監物忠善は、庭の松葉を千切り捨て、呟いた。

「ええいっ。元知の奴め。可愛い萌に、何ということをしてくれたのだ。今まで誠実な男だと信じて来たが、女に刃を振るうなどとは、武士の風上にも置けぬ奴。水野一門の面汚しである。ちと厳しい処分を考えなければ・・・」

 忠善は、深く考えた。どうなるのか元知は。

 

         〇

 翌日、安中藩の九十九川の畔では、娘、八重を失った百姓夫婦が泣いていた。

「八重。お前は何故、殺されるような事をしたんか。何故、お殿さまの椀に縫い針を入れるような悪事なんかしたんか。お殿さま、お殿さまと云っていたお前が、そんな事をしたとは、おっ母には、どうしても信じられねえんだ」

「云うな絹。八重は無実の罪を負って殺されたんだ」

「でも、大事な娘を殺されて、黙っていられべえか。良庵さまの説明では、八重がお殿さまの食膳の椀に縫い針を入れたことを自白したっちゅう話だが、八重が、そんな恐ろしい事をする筈がねえ。春頼さまはじめ、多くの人たちが、八重の為に援護して下すったが、あの奥方様のお怒りを抑えきれずに、あんな残酷な姿で、八重は殺されちまったんだ。わしはあの奥方を一生、恨むべえ」

 源兵衛は妻を宥めた。

「云うな、絹。あれが八重の定めだったんじゃ」

「諦めろとあんたは云うんか。可愛い、たった一人の娘を殺されて、あんたは悔しかあないんか。あんたも男なら、あの奥方の首を鎌で叩き切って来るのが、本当だんべえ」

「奥方さまは今、安中にはいねえよ」

「安中にいなけれやあ、江戸に出かけて行って、殺して来るのさ。どんな遠くであっても出かけて行って、憎き敵を殺すんが、娘を殺された仕返しの証しっちゅうもんさ。それが八重への親としての真心だんべえ」

「落ち着け、絹。わしが何をすべえが、もう八重は帰って来ねえんだ。それよりも、八重の為に、この九十九川に毎日、供養に来るべえ」

「あんた」

 絹は、そう叫んで泣き伏した。源兵衛は泣き伏す絹の傍にしゃがみ込んで言った。

「泣くな、絹。俺まで泣けて来るじゃんか」

 そして、溜息をつき、絹の背中に手を伸ばし、そこを撫で回した。絹は源兵衛に背中を撫ぜられながら、川面に向かって呟いた。

「ああ、八重。お前が無実であることは、おっ母が一番、良く知ってらあ。おっ母は八重を信じている。この川岸に一握りの胡麻の種を蒔くけど、もし無実なら、八重よ、毎年、この岸に胡麻の花を咲かせてくんな。そして、お前の無実を証してくんな」

 源兵衛は、その絹の言葉を聞くと、絹と一緒に泣いた。

 

         〇

 寛文七年(1667年)五月、水野監物忠善は、保科正之酒井忠清稲葉正則、板倉重矩、久世広之、土屋数直らに娘婿、信濃守水野元知の乱気について相談した。結果、五月二十三日、忠善の娘婿、水野元知は家名断絶、領地没収の上、その身柄を出羽守水野忠職に預けられた。また元知の息子、元朝は、母と共に元知の義父、大学水野監物忠善に引取られた。元知は、この老中らの処置に、はなはだ心中、穏やかで無かったが、反抗しようとしなかった。大人しく水野忠職の統治する信濃国松本の地にて、山河を眺め、蟄居の日々を送った。この改易により、第四代将軍、徳川家綱の小姓であった備中守堀田正俊上野国安中の藩主となった。

 

         〇

 翌年、夏、九十九川の畔に淡い紫色の胡麻の花が沢山、咲いた。八重の母は今日も八重の墓を訪れていた。

「八重。お前は何故、この老い先短いおっ母を置いて、黄泉路へ行ってしまったんだ。おっ父も、お前の後を追うみてえに、去年、死んじまったが、会えたか?今、おっ母はひとりぼっちだ。だけど、この岸に咲く胡麻の花を見て、おっ母は八重の無実を知り、お前を信じて良かったと思っている。この胡麻の薄紫の花びらを見て、誰もが、お前を無実だと云ってくれている。お前を可愛がってくれた水野元知さまは今、信濃国の松本という所に、一人、お寂しく暮らされているっちゅう話じゃ。安中藩は元知さまが不在となった後、備中守堀田正俊さまが御城主となられた。その堀田さまに、良庵さまだけが、お仕えになられている。人の噂じゃあ、良庵さまと、ある俳諧師と堀田さまとの三人が、元知さまを、安中からの追放を画策したのだという話じゃ。恐ろしい事じゃ。お前が眠るこの川っ淵も、最近、供養に訪れてくれる女衆が多く、何時しか誰となく、『八重が淵』と呼ぶようになった。おっ母は命ある限り、毎日毎日、こうして、お前に会いに来る。今日は随分、喋っちまった。そろそろ夕暮れ時になって来そうだ。じゃあ、八重、また明日、来るよ」

 八重の母、絹は霞む目で、夕暮れを迎えようとしている妙義山を見やった。

 

         〇

 以上をもって『信濃守水野元知の恋』は終わった。後になって判った事であるが、備中守堀田正俊は、時の館林城主、徳川綱吉に近づく為、松尾桃青、中里良庵をして、綱吉と同じ上野国安中の城主になったのである。そして延宝八年(1680年)八月、綱吉の兄、将軍家綱が没すると、堀田正俊は《正しい血統の御世継を》と進言し、酒井雅楽頭、稲葉美濃守ら老臣の提案に異議を唱え、見事、徳川綱吉を第五代将軍に擁立したのである。堀田正俊。彼こそが、この物語の陰の創作者だったのかも知れない。

 

    『信濃守水野元知の恋」終わり