小田原仇討ち義兄弟

 文政元年(1818年)7月12日の小田原城下は、夏であるのに、海からの風に軒先の風鈴が揺れて、過ごし易かった。そんな夏の日、非武士身分の中間や小者のちょっと上の位で、苗字帯刀を許されている足軽、浅田只助は一日の仕事を終え、足軽長屋に帰り、のんびり休んでいた。そこへ只助の幼馴染の風呂屋の安兵衛がやって来た。

「只助。約束の物を持って来てやったぜ」

 その声に只助の娘、千佳が土間から玄関口に顔を出した。安兵衛が手に吊るして来た大きな魚を見て千佳は、びっくりした。

「まあっ。安兵衛さん。何と大きな鰹!」

「うん。海から上がったばかりの生きの良い鰹だ。おっ母さんに食べさせてくんな」

 奥の板の間にいた只助は、鰹を持って来てくれた安兵衛を笑顔で迎えた。

「こりゃあ立派な鰹だ。有難うよ。お千佳、早速、料理だ」

「分かっております。それに、お酒もでしょう」

「その通りだ」

 仕度をする為、千佳が勝手に向かった。その紺絣の千佳の後ろ姿を眺めながら、安兵衛が言った。

「お千佳ちゃんは気の利く良い娘さんだ。婿になる奴が羨ましいぜ」

 安兵衛の言葉を耳にして、千佳は赤くなった。

「まあ、安兵衛さんたら・・・」

「こいつは昔から口が達者だ。お千佳、こういった類には気を付けろよ。風呂に入る時も、こいつには見られねえようにするんだぞ」

「分かってます。お風呂屋の安兵衛さんの女たらしは有名ですから・・・」

 千佳の言葉に只助が頷いた。すると安兵衛が照れながら反論した。

「でも女たらしにかけちゃあ、万助にはかなわねえや。あいつは、この間も、お琳とかいう女と、山王の船小屋から、いちゃつきながら出て来やがった」

「何じゃと。万助は、まだ女遊びを繰り返しているのか。一ヶ月前、あやつの保証人になり、『大阪屋』から十両借りて、やっと女との縁を切らせたばかりなのに・・

「あいつは与太者だ。おめえの気持なんか、てんで分かっちゃあいねえ、大馬鹿者だよ」

 安兵衛が万助の悪口を言うと、只助が顔をしかめた。

「万助の悪口を言うな。わしは子供の頃に万助の母親に、大変、お世話になった。その恩返しのつもりで、鳴滝んちの面倒をみている」

 只助が拳を握り締めた。安兵衛は、驚き、ぴくりと首を縮めた。父親の目が吊り上がっているのを見て、千佳は急いで酒の入った徳利と盃を盆に乗せて、二人の前に置いた。それから二人の酒の酌をした。

「安兵衛さん。お酒をどうぞ。お父様も・・・」

「有難うよ。幼馴染と飲む酒は、良いもんだなあ」

「全くだ」

 二人は立て続けに二杯、口に運び、目を合わせて笑った。只助が良い気分になって、豆腐の次に茄子の糟漬に箸をつけようとした時のことだった。突然、噂の万助が、浅田只助の家にやって来た。亀次と琳が一緒だった。

「ごめんよ。只助兄貴はいるかい?」

「これはこれは鳴滝様」

 千佳が、そう言って鳴滝万助を玄関に招き入れると、只助が万助を睨んだ。

「噂をすれば影とやらか。仲間など連れて我が家に来るとは何事だ?」

「約束の二十両を戴きに伺いました。用立て出来ましたでしょうか?」

 万助の言葉を聞いて、只助は真っ赤になった。

「何だと。それについては先日、待ってもらうよう依頼せよと申したではないか。納得してもらえなかったのか」

 万助は黙ったまま返事をしなかった。万助に代わり、『大阪屋』の使用人、亀次が答えた。

「確かに鳴滝様はあっしの主人に、返済日を延ばしていただくよう御依頼されました。しかし、あっしの主人が、それを了解する筈などありません。あっしの主人、大阪屋甚兵衛は金の猛者です。損の出るような、御貸出しは致しません」

「そこを何とかならないかと、借主の万助に頼んだ筈だが」

「そうは申されましても、鳴滝様にお貸しした二十両は、あっしの主人、大阪屋甚兵衛が、浅田様が保証人ということで、御貸出ししたものです。ですから、鳴滝様がご返済出来ない場合は、浅田様から私どもに、お返ししていただきませんと・・・」

 それを聞いて、只助は万助を睨みつけた。万助は顔を伏せていたが、突然、土間に両手をついて、只助に、お願いした。

「わしも借りた金を返済しようと、あっちこっち駆け回った。しかし、わしに金を貸してくれる者はいねえ。その上、おいぼれババアをかかえ、わしは、もう、どうにもならねえ。返済の期日を延ばし延ばしにして来たが、もう限界じゃ。只助兄貴、二十両、用立ててくんな」

 只助は万助の目を覗き込み、万助を怒鳴りつけた。

「万助。おぬしは女遊びを止め、真面目に働いて、借りた金は必ず返済する。だから保証人になってくれと申したではないか。あの言葉は嘘だったのか」

「あの時は、そう思ってました。しかし、どうしてわしに二十両もの大金が、用立て出来るというのです。世間は、そんなに甘いもんじゃあありませんぜ」

 万助の言葉は、自分の不始末を詫びる言葉では無かった。只助は激怒した。

「おぬしは、初めっから返すつもりは無かったのか。工面して借りてやった金の恩を、おぬしはわしに利子をつけて返せというのか」

「わしだって、銭がたまったら、返そうと思っていたさ。しかし、仕方ねえじゃあねえか」

 二人の怒鳴り合う声を聞いて、奥の畳の間に臥していた只助の妻、菊が起き上がった。衰弱した手を震わせて夫に言った。

「あなた。借りたお金は返しましょう。私の持っているお金で清算して下さい」

「何を言うか。その金は、お前が病気の身で針仕事をして稼いだ、大事な大事な金ではないか。お千佳の嫁入りの為に貯めて来た金ではないか。それに手をつける訳にはいかねえ」

 只助夫婦の話を聞いて、万助がニンマリした。

「そりゃあ、お菊さんの言う通りだ。有り金を、さっさと出してくんな」

 借金の保証人になってやった万助に金を督促され、只助は激昂し、盃を土間に放り投げた。それを見ていた千佳が只助にしがみついた。

「お父様。お母様の申され通りに致しましょう。私は、お嫁になど行かなくて良いのです。お金を、お返し致しましょう」

「お千佳。お前は鉄蔵の嫁になるのではないのか」

「鉄蔵さんのお嫁さんになりたいわ。でも、借金は、お返ししないと・・」

「馬鹿言え。金は、この万助が借りた金であり、わしが借りた金ではないわ」

「でも・・」

 千佳は半泣き顔であった。亀次は、そんな親子の様子に同情するような男では無かった。千佳ににじり寄り、只助に向かって言った。

「お嬢さんは賢いや。しかし、どうしても返していただけないというのなら、失礼ながら、お嬢さんをお預かりして行きましょう。このお嬢さんなら、あっしの主人も許してくれましょう。なあ、お琳」

「そうね。男衆の喜びそうな器量良しのお嬢さんだわ。連れて行きましょうか」

 琳が千佳の手を引っ張った。

「キヤッ!何をなさります」

「やめろ!お千佳に手を出すな」

 只助の目が怒りに燃え上がった。琳は千佳の手を離そうとしない。塾から帰って来た千佳の弟、門次郎は何が何だか分からない。万助は立ち去ろうとしながら念を押した。

「只助兄貴。娘は貰って行く。娘を返して欲しくば、三十両持って来い」

 板の間にいた只助が目を吊り上げ、立ち上がった。姉の危険を察し、門次郎が腰の小刀を抜いて叫んだ。

「おのれ悪党。姉上を返せ!」

「門次郎。そんな屁っぴり腰で、わしを斬れると思うか。こうしてくれるわ!」

 万助は小刀を構えて震える門次郎を蹴飛ばした。

「痛てえっ」

 門次郎が転がるのを見て、只助が路地に躍り出た。

「万助、もう我慢ならぬ。尋常に勝負致せ」

「望むところだ」

 その刀を振り上げた只助に、菊が病床から這い出して来て縋り付いた。

「止めて下さい。二人とも親友ではありませんか」

「お千佳を金貸しに引き渡そうなんて考える奴が、何で親友であるものか。万助は門次郎が言う通りの悪党だ。金貸しに操られた狂人だ」

「あはははは。何を言われようが、わしは平気だ。行くぞ只助。キエーッ!」

 只助、目掛けて、万助が刀を振り下ろした。只助は左に身を躱そうとしたが、菊に足を掴まれていて、跳ぶことが出来なかった。

「あっ、危ない、お父様!」

 千佳が叫んだ時には、只助はもう、右肩を斬られていた。只助は傷口を抑えながら逆襲した。万助は菊が転がっていたので、足場が悪く、只助の刀を避けきれなかった。

「ああっ」

「鳴滝様。大丈夫ですか」

 亀次が心配した。

「何のこれしき。只助、死ねっ!」

「うわっ」

 万助の刀を受け、只助が倒れた。

「誰か、誰か、誰か来てぇ!」

 千佳が絶叫した。その時、亀次が琳に合図した。

「お琳。金を盗んで逃げろ」

 琳は亀次に命じられると、菊が先程まで寝ていた布団の枕元より、金を奪い、亀次と逃走した。誰も勝負の結果に慌てふためくばかりで、どうすることも出来なかった。

「お父様、お父様」

「あなた、あなた」

 もがき苦しむ只助を見て、妻と娘が泣き叫んだ。只助は最期の力をふりしぼり、息子、門次郎の腕を掴んで言った。

「門次郎。残念じゃ。わしの仇を討ってくれ」

「父上。父上!」

 只助は門次郎に抱かれ今にも死にそうであった。そんな只助を見て、震えている万助に、風呂屋の安兵衛が食ってかかった。

「万助。おめえ、只助を斬るとは、気が狂ったか」

「わしは正気じゃ。わしは口には出さなかったが、長年、只助を憎んで来た。わしにとって、只助は不倶戴天の敵じゃ。只助は、わしの妻となるべきお櫂を、江戸の道具屋に嫁がせた憎き男じゃ」

「万助。それは只助が仕組んだことでは無い。お櫂の親が決めたことだ。それは、とうに過ぎたことではないか。夢から覚めろ。刀を捨てろ」

「過ぎた事でも、わしにとっては、今でも忘れられない事だ。何時の日にか、只助を殺さなければと思っていた。それにお前もだ」

 万助は血に染まった刀を振り上げ、安兵衛に斬りかかった。安兵衛は跳びすさった。その安兵衛を万助が追った。

「待てっ!安兵衛」

「馬鹿者。親友を殺そうとは、おめえは、それでも武士か」

 安兵衛は転げそうになりながら、友を罵り、逃げ回った。

「わしの気持ちなど、誰も分かりゃしねえ。近寄るな。近寄ると斬るぞ!」

 騒ぎを聞きつけて町役人、松下良左衛門と平田権八とが現れた。

「鳴滝万助。大人しくするんだ。刀を捨てて、自首をするのだ」

「わしを捕まえられるものなら、捕まえてみよ」

 大勢の見物人に囲まれ、万助は苛立ち粋がった。良左衛門も威信を失う訳には行かず、大声で叫んだ。

「我等、捕方に刃向かうというのか。刃向かうというなら仕方がない。一同、万助を捕らえよ」

「がってんでえ。万助、これでも喰らぇ!」

 豆腐屋の鶴吉が、天秤棒で万助の右手を力いっぱい叩いた。

「うわあっ!」

 万助は刀を落とし、右手を押さえて跳ね回った。良左衛門が権八に向かって叫んだ。

「今だ!万助に縄をかけよ」

 武器を失った万助は暴れた。

「寄ってたかって、何をするんでえ」

 喚く万助に安兵衛が言った。

「万助。悪あがきはやめろ。もう逃げられはしないのだ」

「万助。これ以上、抵抗しても無駄じゃ。観念せよ」

 捕方が万助を捕まえ縛り上げると、万助は歯軋りした。

「畜生」

 松下良左衛門が集まった民衆と部下に向かって、誇らしげに告げた。

「浅田只助刃傷の件で、鳴滝万助を逮捕した。これから万助を番所に引き立て、何故、浅田只助を殺害しようとしたのか取り調べる。一同、万助を引立てい」

「おおう」

 立去りながら良左衛門は、浅田家の者や安兵衛に申し付けた。

「尚、浅田家のことについては、鳴滝万助の取り調べが終了した後、追って沙汰する。それまで、お菊にお千佳、門次郎は主、只助の手当てをせよ。安兵衛は介護の医者を探せ」

「分かりました」

 菊が地べたに手をつき良左衛門と権八にお願いした。

「松下様、平田様。このことは仲間うちの口論から始まったこと。どうか穏便にお取り計らい下さいますよう、よろしくお願い申し上げます」

「分かっている」

 権八がしゃがんで菊にささやいた。安兵衛は門次郎と一緒に、負傷した只助を家の中に運び入れた。捕らえられた鳴滝万助は、番所に連れて行かれて取り調べられるや、即刻、浜町の牢屋に入れられた。そして翌朝、只助が死亡したと知らされるや、万助は乱心し、取調べも出来ぬ状態になってしまった。只助を失った千佳や門次郎は、万助の厳罰を訴えようとしたが、只助の妻、菊は、それを抑えた。結果、万助は狂人扱いとされ、禁固三年の刑を受けることとなった。殺人を犯したのに三年経れば放免という刑の軽さは、菊の申し出を受けた松下良左衛門らの配慮であった。

 

         〇

 ところが、それから一年七ヶ月後、文政三年(1820年)2月の夜、浜町の牢屋敷でボヤ騒ぎが起こり、とんでもないことに万助が脱牢してしまった。牢奉行、大橋利十郎は、部下から、その事件を聞いた。

「御奉行様。鳴滝万助が脱牢しました。何者かが牢内に火を点け、その騒ぎの中で、万助が逃亡しました」

 報告を受けた牢奉行、大橋利十郎は目を丸くした。

「何じゃと。あの頑丈な牢から、どのようにして抜け出したのじゃ?」

「万助が煙の中で助けてくれと泣き喚くので、囚人とはいえ、火事で焼き殺す訳にも行かず、不憫と思い、牢部屋の鍵を外し、外に助け出しました」

「万助は煙の中から、よろめきながら出て来ると、火消しの手伝いをしてくれました。そして火消しが終わった時には、もう何処かへ消えていました」

 二人の牢番組の役人が恐る恐る、その時の様子を語った。それを聞いて大橋利十郎は、顔を真っ赤にして身体を揺すった。その姿を見て牢番組の役人はうろたえた。利十郎は報告の場に一緒にいた見回組の連中を睨みつけながら怒鳴った。

「大馬鹿者。万助に騙されおって。見回組は何をしていたのじゃ。火事に気付かなかったのか?」

 見回組の役人が答えた。

「昨夜は風雨が激しく、牢内の騒ぎは聞こえず、全く火事に気付きませんでした」

「何者かが、万助を連れ出したに違いありません。吊り梯子を使い、屋根伝いに逃げたようです」

 見回役の弁明を聞き、利十郎は激怒した。

「如何に風雨が激しくとも、屋根伝いに数人が逃亡したなら、いくら何でも物音がした筈。それに気づかぬ、おぬしらではなかろう。酒でもくらって眠っていたのか」

「滅相もありません。見回組は交替で警備に当たっておりました」

「ならば何故?」

 利十郎の問いに牢番役人が答えた。

「万助は剣の達人。それに忍びの術も心得ております。こんな牢屋など、いとも簡単に抜け出せると、日頃、うそぶいておりました」

「何と。万助は、そのように、おぬしらを愚弄していたのか」

「はい。狂人の戯言と相手にしておりませんでしたが、いざ脱牢されてみると、万助は何時か脱牢してやろうと考えていたに違いありません」

「あいつの仲間が手引きしたに違いありません」

 大橋利十郎は悩んだ。万助の逃亡を黙っておく訳にいかない。どんな御咎めがあるか分からない。利十郎は渋い顔になり、奉行所から牢番役人や見回組の者を、それぞれの持ち場に帰らせた。それから考えた。三年間、我慢すれば大事にならなかったものを、万助は脱牢などという、とんでもない事をしてくれたものだ。

 

         〇

 浜町牢屋敷の牢奉行、大橋利十郎は、ことの次第を、先ず小田原城にいる家老、吉野図書に報告し、その後、鳴滝万助の処罰をどのようにすべきか、藩主の御指示をいただく為、江戸屋敷に出向いた。お召しの間で待つこと半時、小田原藩主、大久保忠真が、磯田平馬に案内されて現れた。大橋利十郎が、藩主に挨拶をしようとする前に、大久保忠真が口を開いた。

「鳴滝万助が脱牢したと聞いたが、真実か?」

「と、殿。申訳御座いません。万助の奴、牢内に火をつけて逃亡しました。直ちに追手を差し向けましたが、未だ見つかっておりません」

禁錮謹慎の身でありながら、牢に火を点け脱牢するとは、けしからん」

「到底、一人で脱牢を企てたとは思われません。万助は勿論の事、その仲間を探し出し、必ず処罰致します」

「当たり前だ。万助を何としても探し出せ。小田原藩士にあるまじき行為。余が手打ちにしてくれよう」

 忠真は利十郎に激しく命じ、怒りを露わにした。利十郎は忠真の怒りに身体が震えた。

「ははっ。必ず、万助を探し出しましょう」

「して、万助に殺害された只助の家族は如何しておるのじゃ。平馬、知っておるか」

「はい。浅田只助の未亡人、菊殿は閉門の後、病身ながら、子供らの成長を楽しみに、自分の実家に戻り、針仕事をしながら生活しておられます」

 付き人、磯田平馬の説明に忠真は頷いた。

「子供らは幾つじゃ」

「姉の千佳は十七歳。井細田村の高田栄蔵の三男、鉄蔵と許嫁になっておりますが、婚礼は何時のことやら。弟の門次郎は十二歳。吉岡信基先生や二宮金次郎先生について、学問を身に着けている最中です」

「姉と弟の二人姉弟か」

「はい。二人はとても仲の良い姉弟です。父親を失った苦難にもめげず、病身の母親を助け、懸命に頑張っておられます」

「左様か。そんな姉弟が、親の仇が逃げたと知ったら、どうなるのだ?」

 忠真は牢奉行、大橋利十郎の顔を覗き込むようにして訊いた。利十郎は浅田家の姉弟のことを思い、率直に答えた。

「多分、父親が殺された時のことを思い出すでありましょう。憎しみと悲しみが、恨みとなって蘇って参りましょう。また万助に逃げられた我々のことも非力と笑うでしょう」

「我々のことを非力だと笑うというのか?そして親の仇討ちをしたいと言い出すとでもいうのか」

 忠真の質問に利十郎は首を横に振って返事した。

「一旦、閉門した者が、わずかな家督を継ぐ為に、命を懸けて再興を願うかどうか、疑問です。この太平の世に、そのような考えを持つ者がいるとは思えませんが」

 利十郎の見解に、忠真は死んだ只助の残念至極の思いに心をはせ、平馬に尋ねた。

「平馬はどう思う?」

「人の心は分かりません。もしかして、もしかということもありましょう。たとえ、それが空しい事であっても、人はそれに命を賭けたりするものです」

 忠真は平馬の言葉を聞いて、ほっとした。仇討ちなどいうものは、いかにも時代遅れの感を否めないものであるが、小田原藩士には、そういった気概を失ってほしくなかった。牢奉行、大橋利十郎は、鳴滝万助逃亡の報告を終え、万助を捕らえることを約束すると、江戸屋敷から小田原へと急いで戻って行った。忠真は利十郎の報告を受け、しばらくぶりに小田原に行って見ようかと思った。

 

         〇

 小田原藩主、大久保忠真は、紅梅白梅が咲き匂う小田原に帰城した。家老ら重臣を集め、諸々の打合せを終え、忠真が城下を眺めていると、家老、吉野図書が落着きの無い足取りで戻って来た。

「殿。高田栄蔵の三男、鉄蔵が、鳴滝万助に殺害された浅田只助の長子、門次郎の仇討ちの手助けをしたいと、嘆願書を届けにやって参りました。如何、致しましょう?」

 図書の言葉に、忠真の目が輝いた。

「何じゃと。あの高田鉄蔵が、仇討ちの助太刀をしたいと申し出たというのか」

「はい。浅田家の一家、そろって、その嘆願に参っております」

「よろしい。ここに通せ」

 忠真は鉄蔵らを二の丸書院の前庭に通すよう命じた。それを受けて、吉野図書が磯田平馬に声をかけた。

「殿のお許しが出た。高田鉄蔵らを、ここに呼べ」

 平馬が走って行き、大橋利十郎に伝えると、利十郎に連れられ、浅田家の者と高田鉄蔵が、書院の庭に現れた。平馬が、恐る恐る入って来た一同に向かって言った。

「殿からのお許しが出た。一同、こちらに坐れ」

「有難う御座います」

 浅田家の代表、浅田五兵衛が深く頭を下げて礼を言い、一同を庭に坐らせた。そこへ忠真がゆっくりと姿を見せた。忠真は一同を見回し、高田鉄蔵を見つけた。

「高田鉄蔵、久しぶりじゃのう」

「お懐かしゅう御座います。このような形で御目にかかることになろうとは、予想だにしておりませんでした。誠に恐れ入ります」

「そちとは、よう稽古をしたものじゃのう」

 忠真は少年の鉄蔵が手加減もせず、打ち込んで来るのに悩まされた日のことを思い出した。鉄蔵は忠真と剣術の稽古をする機会がなくなってからも、剣術に励んで来た。

「はい。若さいっぱい、夢中で稽古をして参りました。これからの世の中では剣術など、どうでも良い。学問に励み、役人としての才能を身に付けよという周囲の言葉に耳を傾けず、ただひたすら、剣に打ち込んで参りました」

 二十一歳の鉄蔵は長身であるが、剣術で鍛えた引き締まった身体をしており、眉が濃く、鋭い目の精悍な顔をしていた。

「そして、その時が来たというのか」

「はい。ここに居並ぶのは鳴滝万助に殺害された浅田只助の妻、菊。その男子、門次郎。女子、千佳。それに浅田五兵衛を頭とする縁者一同です。主人、只助を殺害した鳴滝万助が、罪を償わぬまま脱牢したことを聞きつけ、こうなっては、万助が処罰を終えぬまま何処かに雲隠れしてしまうのではないかと思い、一家そろって仇討ちの御許可をいただきに参りました」

「今時、仇討ちなどということは耳にしないが、本気でそれを考えておるのか?」

 忠真が確認すると、鉄蔵が真剣な眼差しをして答えた。

「仇討ちは武家の習い。ましてや、その仇討ちが故人の遺言であれば尚のこと、果たさねばなりません」

 それに浅田家の代表、五兵衛が言い添えた。

「只助は残念だ。仇を討ってくれと、何度も言いながら死んで行きました。お殿様。お願いです。仇討ちの御許可をお聞き届け下さい」

 忠真は一瞬、顔を曇らせた。それから改めて鉄蔵に尋ねた。

「そちたちの願いは分かったが、何故、浅田家の仇討ちに、鉄蔵が手助けをするのか」

 鉄蔵は答えた。

「御覧の通り、故人、浅田只助の妻、菊は病身であり、敵を追って旅することは難しく、倅の門次郎はまだ少年。娘の千佳はか弱く、姉弟二人で、あの鳴滝万助を討つのは無謀です。そこで、それがしが浅田家の婿養子となり、母上と千佳を小田原に置き、門次郎と仇討ちの旅に出ることに決めました」

「左様であるか。すると鉄蔵は浅田只助の遺児、門次郎と共に義父の仇討ちを行い、見事、仇討ちを果たした時、千佳と一緒になり、浅田家を再興するというのじゃな」

「はい」

 忠真は浅田家一門の心意気に感激し、右手で袴をポンと叩いた。

「気に入った。そちたち二人には仇討ちの手当金と太刀を授けることにしよう。それと留守宅の母親と娘には、扶持と妙薬を与えよう。不届き者、鳴滝万助の仇討ちについては、江戸の三奉行と相談の上、許可することにしよう」

「有難う御座います」

 鉄蔵は庭土に額をつけて感謝した。鉄蔵や五兵衛の背後にいた一同も、それに合わせ、身を縮めて頭を下げた。家老、吉野図書が一同に告げた。

「以上、殿、直々の御許可である。一同、深謝されよ。また二人は早々に本懐を果たし、この小田原に戻って来い。もし仇敵が死んでしまった時は、その証拠を持って帰るのじゃぞ」

「ははーっ。有難き仕合せ。深く深く感謝申し上げます」

 鉄蔵は、藩主、忠真と家老の図書を見詰め、涙顔になった。その鉄蔵の顔を見て、忠真は笑った。

「免許状は数日後に渡せよう。では鉄蔵、また会おう」

 忠真は鉄蔵の意気込みに触れ、上機嫌だった。

「はい。見事、仇討ちを果たして御覧に入れまする。お殿様も御達者で」

 忠真は平伏する浅田家一門を見やり、その場から立ち去った。

 

         〇

 小田原藩主、大久保忠真は江戸に戻ると、同僚の老中たちに仇討ち届書を回し、仇討ち許可の了解を求めた。老中たちは届書に目を通し、直ちにそれを許可してくれた。かくして二十一歳の青年、高田鉄蔵と十二歳の少年、浅田門次郎は浅田只助を殺害して、浜町牢屋から脱獄した鳴滝万助が逃亡したと思われる上方に向かうことになった。何故なら、万助の逃亡先が、『大阪屋』の使用人、亀次の出身地、堺あたりではないかとの想定からであった。鉄蔵と門次郎は松原神社に祈願し、一族に見送られて小田原を出立した。東海道を西へ西へと急いだ。何としても、鳴滝万助を討たねばならぬ。一ヶ月前、万助が浜町の牢屋から逃亡したことを知ると、只助の妻、菊と娘の千佳は、只助が斬殺された時の惨い情景が蘇り、嗚咽を洩らしていた。その様を思い出す度に、鉄蔵の心に、敵に対する強い怒りが沸き上がって来た。また父が目の前で討たれるのを防ぐことが出来なかった門次郎の無念と屈辱は、後悔と怒りの混交した複雑な感情となって、門次郎の心の内に激しく渦巻いていた。しかしながら、行けども行けども、万助らしい男の足取りは掴めなかった。それでも諦める訳にはいかない。この無念を晴らさねば、武士として生きては行けぬ。二人は必死になって万助を探索した。殺人を犯し、その上、脱獄した大悪人だ。関東取締出役の見回りは厳しい。関八州には留まっていない筈だ。名古屋を過ぎ、京都に到着しても、万助の消息は掴めなかった。藩公、忠真が京都所司代の頃に仕えていた人たちを頼りに、万助のことを訊ねると、大阪にいる可能性が高いと言われ、大阪、堺に出向いたが、万助の足取りは全く分からなかった。二人は四国、九州へも足を伸ばした。薩摩まで行ってみたが、何の手がかりも無く、二人は仕方なく、関東へ引き返すことにした。九州から周防に渡り、山陽道を京都に向かい、そこから北陸に入り、続いて中仙道にて信濃から関東に戻り、江戸に着いたのは、文政四年(1821年)の秋であった。二人は路銀に事欠き、もう移動もままならぬ状況になっていた。

「兄上。もうこれ以上、動き回っても無駄ではないでしょうか。万助は名前を変えたりしていて、見つからないのではないでしょうか」

「門次郎。仇討ちは、そう簡単なものではない。諦めるのはまだ早い。一生かかっても万助を探し出すのじゃ」

「でも、このままでは食うにも困り、野垂れ死にしてしまいます」

 鉄蔵は門次郎を睨み、叱咤するかのように言った。

「そう弱気を吐くな。万助の首を討てば、それがしたちは、晴れて小田原への帰参が叶い、城下へ戻り、家督を継ぐことが出来るのだ」

「分かっております。それにしても、随分と方々を探し回りました。それ故にか、何時、会えるかも知れない仇敵を求めて、当てどなく歩き続けるのが、門次郎には馬鹿らしくなって来ました」

 門次郎は泣き顔であった。鉄蔵は苦渋に顔をしかめ、門次郎を諭した。

「今しばらくの辛抱じゃ。それがしたちの苦労は、神様や仏様が、ちゃんと見ていてくれる」

「そうでしょうか。浅間神社熱田神宮伊勢神宮延暦寺西大寺、琴平宮、善通寺厳島神社、常栄寺、宇佐神宮金剛峯寺永平寺善光寺など、私たちは、どれだけ沢山の神社仏閣にお参りしたことでしょう。本当に神や仏は、私たちのことを見ていてくれるのでしょうか」

「見ていてくれるとも。それに御母堂や千佳殿が、それがしたちの成功を祈願しておられる。我慢するのじゃ」

 そうは言ったものの、鉄蔵も月日が風のように過ぎ去っていくのが恐ろしかった。鉄蔵は亡き只助の従姉の夫、馬場儀右衛門が、江戸の一ッ橋家に仕えているのを思い出した。一ッ橋家の下屋敷は深川扇橋の近くにあった。鉄蔵は、そこを訪ね、儀右衛門夫婦にお願いした。

「門次郎はまだ十三歳になったばかしです。私とこのまま諸国を歩き回っていたのでは、本来の武士としての文と武の教育を、身に付けさせることが出来ません。どうか門次郎を側に置いて、教育して下さい。仇敵、万助の居所は私が突き止めます」

 鉄蔵たちの苦境を知った儀右衛門夫婦は二人に同情し、鉄蔵の願いを聞き入れた。

「承知しました。この屋敷に住まわすのは難しいと思いますが、旗本、大前孫兵衛様が、若党を求めておられますので、そちらに紹介致しましょう。まずは私どもで、門次郎をお預かり致します」

「有難う御座います」

「今日は積もる話もありましょう。泊っていって下さい」

 儀右衛門が宿泊を勧めると、鉄蔵は辞退した。

「門次郎を預かっていただくだけで充分です。私は木挽町の姉の所に泊ります。私の姉は『駕籠勝』という宿駕籠担ぎの渡世をする勝右衛門の女房です。そこで一泊し、明日から甲州街道方面を歩いてみます」

「そうですか」

「万助を見つけ出しましたら、必ず門次郎を迎えに参ります。そして二人で、討ち取ります。たとえ五年、十年かかりましょうとも、必ず万助を探し出し、門次郎を迎えに参ります。それまでは、門次郎をよろしくお願い致します」

 鉄蔵は、そう挨拶して一ッ橋家の下屋敷から立ち去った。馬場夫婦と一緒に鉄蔵を見送る門次郎が、溢れ出ようとする涙を耐えているのが分かった。鉄蔵は木挽町に向かった。こうして鉄蔵と門次郎は離れ離れに生活することになった。鉄蔵は木挽町の『駕籠勝』の姉、喜代の家を基点として、万助探しを開始した。虚無僧姿に変じたりして、江戸の周辺を歩き回った。だが万助の行方は杳として分からなかった。月日はどんどん過ぎていった。

 

         〇

 文政七年(1824年)三月、鉄蔵が小田原を出てから四年目になろうとしていた時、鉄蔵は『駕籠勝』の勝右衛門の紹介で、深川の医者、印牧元順の若党となった。若党部屋で診断記録をまとめていると、看護婦の松宮綾がやって来た。

「鉄蔵さん。先生がお呼びです」

「先生が、それがしを。何であろう」

「お知合いの人が、お見えになっているとか」

 鉄蔵は首を傾げた。門次郎ではあるまい。

「誰であろう」

 鉄蔵は廊下を進み、元順先生のいる診察部屋の障子を開けた。

「失礼致します」

 障子を開けるや、鉄蔵はびっくりした。眼前にいる女を見て、声が出なかった。女が妖しく微笑した。

「矢張、鉄蔵さんね」

「何と、お櫂さんでは御座らぬか。お櫂さんが何でここに?」

 鉄蔵の質問に元順先生が答えた。

「お櫂さんは、この近くの深川舟町に住んでいる。女の子が熱を出して、診察に来られたのじゃ。世間話をしているうちの、お前の話になってな・・・」

 櫂は女の子を抱きながら、鉄蔵を見て、にっこり笑った。鉄蔵は櫂が小田原にいた頃の少年から立派な逞しい青年に変貌していた。

「小田原の人が先生の所にいるというものですから、誰かと伺えば、鉄蔵さんらしいので」

「お櫂さんと会えるとは、思いもよらなかった。実に久しぶりです」

「はい。お懐かしゅう御座います」

「積もる話もあろう。わしはひとまず席を外そう。お櫂さん。薬を用意しておくから、帰る時に声をかけておくれ」

「お気使いいただき有難う御座います」

 元順は医療道具を持って、部屋から出て行った。鉄蔵が櫂の抱いている子供を覗き込んで、子供の様子を伺った。

「子供の具合はどうですかい?」

「先生に熱さましの御薬をいただき、このようにぐっすり眠っております。安心しました」

「そりゃあ、良かった。印牧先生は腕の良い医者だ。姉のつてで、それがしも厄介になっております」

「そうでしたか」

 二人が正面きって話すのは数年ぶりの事であった。鉄蔵は小粋な櫂の夫、道具屋松五郎のことを思い出した。

「松五郎さんは達者ですかい」

「相変わらずの堅物で、困っております」

「男は真面目な方が良いです。ちゃらんぽらんな奴と付き合っていたなら、身の破滅だ」

 櫂は思わず鉄蔵を睨みつけた。

「万助のことを言っているのかい」

「そうです。それがしは貴奴のことを、四年も探し回っている。何処へ行ったのか、皆目、行方知れずじゃ。もしかして、お櫂さんの所へ、尋ねて来たりしなかったかい」

「あの人とは小田原で別れたっきり、何の音沙汰もありゃあしないよ。きっとお琳と一緒だよ。あの人は、私からお琳に乗り換えたのさ。探すなら、お琳の故郷の水戸へ行ってみるんだね」

 櫂が自分を捨てた万助を憎んでいるのが分かった。女の勘は鋭い。もしかすると、万助は水戸あたりにいるのかも知れない。

「有難うよ。お琳が水戸の生まれとは知らなかった」

「お琳は小田原に売られて来たのさ。それを、ちょっとばかし可愛いからと言って、『大阪屋』の旦那が身請けしたのさ。そして色仕掛けで万助をたぶらかしたってわけ」

「そういう裏があったのか」

 鉄蔵が頷いていると、櫂が豊かな腰のあたりを捻るようにして、女の子を抱いて立ち上がった。何とも色っぽい。

「鉄蔵さん。もっと話していたいけど、うちの松五郎が焼餅を焼くといけないから、帰りますね。それに、ここじゃあ・・・」

「今日は、お櫂さんに会えて良かった。嬉しかったよ。子供は宝だ。大事にして下さい」

「有難う御座います。私は舟町の『黒江屋』という道具屋にいますから、暇があったら来ておくれ」

「分かりました。薬を貰って帰って下さい」

「あいよ」

 櫂が子供を抱いて立ち去ると、綾が部屋に入って来た。

「随分と馴れ馴れしいお人ですね」

「小田原にいた時の知り合いです。昔から、あんな女でした」

「騙されてはいけませんよ」

 綾は諭すように言った。分かっている。今日の櫂の顔が、余所ゆきの顔であることを・・・。それにしても、櫂から聞いた琳の情報は有難かった。鉄蔵は水戸に行ってみようという好奇心にかき立てられた。

 

         〇

 それから数日が過ぎて、また来客があった。綾が鉄蔵のいる部屋に、それを伝えに来た。

「鉄蔵さん。お客がお見えになりましたよ」

「誰かな?」

「お侍さまです。ここへお通ししますよ」

「通してくれ」

 綾は一旦、立去り、再び客人を連れて、やって来た。

「こちらで御座います」

 綾に案内され、現れたのは、母方の親戚、富士大宮の御師、中村伊織であった。

「おおっ。伊織殿では御座らんか」

「お久しぶりです。緊急にお知らせしたい話があり、お伺いしました。お人払いを」

 鉄蔵は伊織に、そう言われて綾に目を向けた。

「綾さん。申し訳ないが、席を外してくれ」

「まあっ、気が利かず、申し訳ありません。話が終えましたら、声をかけて下さい」

 綾は丁寧に挨拶して立去った。綾が遠ざかったのを確認して、鉄蔵が声をひそめて訊いた。

「人払いした。それがしに知らせたい話とは、どんな話です?」

「門次郎の母、お菊さんからの伝言だが、お主らの探している鳴滝万助は、水戸の外れにいるらしいぞ」

「それは真実か?」

 鉄蔵の目が輝いた。

「亡くなられた只助伯父の昔の同僚、宮川太吉さんが、水戸あたりで、幾度か万助を見かけたと、お菊さんに知らせて来たというのだ」

「矢張り、水戸か」

 鉄蔵は部屋の天井を睨んだ。伊織は話を続けた。

「それに豆腐屋の鶴吉が、鹿島神宮のお祭りで、鳴滝万助の子分、亀次に出会ったそうだ」

豆腐屋の鶴吉が、何で鹿島などに?」

「あいつは、お琳という女が忘れられぬらしい。小田原から姿を消した、お琳を探しているうちに、そのお琳が、磯浜という所で、煙草屋をしているのを突き止めたという」

 鉄蔵は鶴吉が琳に惚れていることを、この時、初めて知った。そして察知した。

「ならば、そこへ行けば、万助に会えるというのだな」

「その通りじゃ。門次郎の母は、お主にそう伝えてくれと、拙者に依頼して来た。お主と門次郎が磯浜に行く日が決まれば、それに合わせて、鶴吉を磯浜に行かせるぜ」

「鶴吉には関わりの無いことだと思うのだが・・・」

「鶴吉は万助にお琳を取られた男。万助を恨んでいるのだ。万助を討つ時に、立会いたいと言っている。何かと役に立つと思う。仇討ちに立会わせてやってくれ」

 伊織は鶴吉に頼まれたらしい。仇討ちは失敗出来ない。何としても成就せねばならぬ。鉄蔵は腹を決めた。

「鶴吉の気持ちは分からぬでもない。敵の子分も多いかも知れぬ。四月二十五日、磯浜の旅籠に来るよう、鶴吉に伝えてくれ」

「了解した。拙者はこれから小田原を回り、富士へ帰る。門次郎にも、よろしく伝えてくれ。見事、本懐を果たし、浅田家を再興し、お千佳さんと目出度く夫婦になってくれ。これは中村家からの援助の気持ちじゃ。路銀の足しにしてくれ」

 伊織は懐中から巾着袋を取り出し、鉄蔵に渡した。鉄蔵は伊織の手を握り締めて言った。

「伊織殿。ご支援、心より感謝申し上げる。母上やお千佳にも、あとわずかの辛抱であると伝えてくれ。伊織殿の御家族にも、本懐を必ず果たすと、お伝え下されい」

 鉄蔵の感謝の言葉を受けると、伊織は鉄蔵の手を振り解き、深く頭を下げた。

「では拙者は、これにて失礼致す」

「お役目、御苦労で御座った」

 二人は立上がった。鉄蔵の部屋の襖が開き、廊下を歩く足音を聞き、近くの部屋にいた綾が、慌てて顔を出した。

「あらっ、もうお帰りですか?」

「突然、邪魔を致した。印牧先生はどちらですか。一言、帰りの挨拶をしたいのですが」

「近くの患者の所へ出かけております。ゆっくりして行かれるように申しておられましたのに・・・」

「急いで帰らねばならないので、先生が帰られましたら、失礼した事を、お詫びしておいて下さい」

「承知しました。お気をつけてお帰り下さい」

 綾と鉄蔵は『印牧診療所』の屋敷門から通りまで出て、伊織を見送った。

「行ってしまった」

 鉄蔵が部屋に戻ると、綾が部屋にお茶を淹れて運んで来て言った。

「鉄蔵さん。あなたには、お千佳さんという人がいらっしゃったのね」

 綾が恨みがましい声で言った。綾は部屋の襖の外側に身を寄せ、伊織との話を聞いていたに違いなかった。

「盗み聞きしていたのか」

 綾は答えなかった。鉄蔵は言った。

「いかにも、お千佳はそれがしの許嫁じゃ。されど、それがしが仇敵を探し出し、仇討ちせぬ限りは、お千佳と会うことは出来ぬ」

「何処へ逃げたか分からぬ仇に巡り合うまで、何年かかるか分かりませんのに。それまではと、何もかも、我慢なされて来られたのですね」

 綾の目がうるんでいるのが分かった。鉄蔵は一瞬、息を呑んで、綾を見詰めた。綾の目には切羽詰まった何かを決意したような光があった。

「な、何のことです」

「鉄蔵さん」

「綾さんは、それがしの苦しみが分かるというのですか」

「私は女。あなたの気持ちが分からぬ筈がありません。充分、分かっております。男なんですから、私を抱いて下さっても良いのですよ」

 綾が崩れるように鉄蔵の胸の中に身体を預けて来た。鉄蔵は綾を抱いてはならぬと思った。女との情愛に溺れることは許されぬ。どんな快楽の機会を犠牲にしようが、仇を討つまでは禁欲を守らねばならぬ。

「綾さん。それはならぬ。仇を討つまでは、それはならぬ事なのじゃ」

「何故です。そんな痩せ我慢は愚かしいことです。鉄蔵さん。私を抱いて下さい」

 綾はうわずった声で懇願すると、鉄蔵の胸に顔を強く押し付けるように埋めた。この人は仇討ちに行って殺されてしまうかも知れない。それは主人、印牧元順が回診に出かけている間の綾の誘惑であった。

 

         〇

 中村伊織から知らせを受けた鉄蔵は、その日のうちに印牧元順の屋敷から抜け出し、木挽町の『駕籠勝』へ行った。そこには中村伊織の伯父、三間市兵衛から『暇つかわし候』の証文をいただいた、義弟、門次郎が待っていた。勝右衛門と喜代も胸をざわつかせ、鉄蔵が来るのを待っていた。鉄蔵は喜代に言った。

「姉上。鉄蔵は印牧先生に一両二分の前借があります。ここにある衣類や、その他の物を売って、一両二分を作り、我等兄弟が仇討ちしたとの飛脚が来ましたら、この詫状に添えて、印牧先生に、お届け願います」

「承知しました。二人とも死んではなりませんよ。何としても、浅田家を再興させるのです」

 その喜代に続いて勝右衛門が言った。

「見事、本懐をお遂げになられるのを、あっしら夫婦、お待ちしておりやす」

「長い間、有難う御座いました。この御恩、一生、忘れません」

 鉄蔵と門次郎に平伏され、『駕籠勝』の夫婦はまごついた。

「何、言ってるんでい。おめえさんは女房の弟じゃあねえか。他人行儀を言いなさんな」

 勝右衛門の言葉に、畳に手をついた兄弟は、感謝の気持ちを表す術を失った。それから勝右衛門は喜代に酒の準備をさせた。

「さあ、飲んだ、飲んだ」

「では、遠慮なくいただきます」

「それにしても、仇討ちとひと口で言うがよ、誰でも出来るもんじゃあねえぜ。相手が強かったり、手下の数が多かったりする事もあるから、気を付けなよ」

「はい。気を付けます」

「返り討ちにあって、お先真っ暗になったお武家さんも結構いるからな」

 それを聞いて、喜代が目を丸くした。

「あんた、何、言ってるのよ。鉄蔵は小田原一の腕前なんだよ。見て御覧なさい。この刀。大久保のお殿様より頂戴したんだから、負ける筈などないわよ」

「万助は狡い男だからな」

 鉄蔵は姉夫婦の言い合う顔を、面白そうに見比べた。夫婦の会話を黙って聞いていた門次郎が、真顔になって言った。

「鉄蔵兄さんとなら、相手がどんなに悪党でも、討ち取ることが出来ます。見ていて下さい。でっかいことをやって見せますから」

 門次郎の言葉に、他の三人は顔を見合わせ、真顔になった。こうして『駕籠勝』の家の夜はふけて行った。

 

         〇

 翌四月十八日、鉄蔵と門次郎は、深川の馬場儀右衛門に挨拶し、常陸に向かった。三日後に那珂湊に到着。旅籠『小磯屋』を宿に選び、そこで助っ人、鶴吉が来るのを待った。

「兄上。鶴吉さんは、やって来るのでしょうか」

「来るとも。伊織殿の知らせによれば、あの豆腐屋の鶴吉が、鹿島で盗人野郎、亀次に出会ったらしい。調べによれば、亀次は、ここらあたりで暮らしているという。ひょっとして、万助も同じ所にいるのかも知れねえというのだ。それで母上が、鶴吉に金を渡して、この旅籠に来てもらう段取りにしてあるんだ」

「万助は本当に、ここらあたりにいるのでしょうか。私たちは東海道をはじめ、山陽道、さらに四国、九州と、旅の苦労を重ねて参りましたが、憎き万助を見つけられませんでした。本当に万助を見つけられるのでしょうか」

「心配するな。必ず見つかる。その日が来ることを信じて頑張って来たではないか」

「しかし諸国を旅して早くも四年の歳月が過ぎました。本当に見つけられるのでしょうか」

「男であろう。希望を持て!」

 その時、階段を昇って来る足音がした。女中が襖を開け、部屋に顔を出した。

「お客さま。失礼します。風呂が沸きましたので、お入りになられますか」

「そりゃあ、有難い。門次郎、先に入れ」

「兄上が先に入って下さい。兄上の方が、お疲れでしょう」

「そうか、それでは先にいただく」

 女中に案内され、鉄蔵は手ぬぐいを持って階段を降りて行った。門次郎が天井を見詰めていると、女中が戻って来た。

「春と申します。お連れさんは本当に、お客さんのお兄さんなのですか」

「そうです。それが何か」

「二人とも男前なのに、全く似ていないものですから・・・」

 確かに鉄蔵は眉が濃く、精悍な顔をして長身である。それに較べ、門次郎は小柄で色白の甘い顔をした優男である。

「ハハハ。そりゃあ、当たり前だ。義理の兄じゃ。私たちは義兄弟さ」

「左様でしたか。潮来から参られたと伺いましたが、潮来は如何でんした?」

「見渡す限りに水郷で、実に長閑な所であった。桃の花があたり一面に咲いていて、楽しい旅を味わった」

 春は真剣に話す門次郎の顔を見て、ニッと笑い、門次郎に身体を傾けた。

「ここに泊ってから、どちらに行かれるだね?」

「数日してから、日光へ行くつもりじゃ」

「日光に良い人でも?」

「そうじゃ。会いたい人がいるのじゃ」

 門次郎は用心して行く先を偽った。春は身体を摺り寄せ、門次郎の膝をつねった。

「まあ、憎らしい」

「焼餅を焼いているのか」

「決まっているじゃありませんか。だから、ねえ、お客さん。お兄さんが湯につかっている間、ちょっとばかり、私を可愛がっておくれよ」

 門次郎は慌てて、春を突き放した。

「からかわないでくれ。私は女は嫌いじゃ」

「女嫌いな男なぞ、この世にはいませんよ。私は優しくて、情が深いのよ」

 春な門次郎の手を握り、唇を門次郎の顔に押付けようとした。

「止めてくれ。兄上に見つかったら大変だ」

「恥ずかしがらなくったって良いのさ。私を抱いておくれよ」

「それは出来ない。勘弁してくれ」

「いいじゃあないか。ちょっの間で良いからさ。ここに手を入れておくれよ」

 春は執拗だった。緋色の長襦袢の胸を開き、乳房に触れさせようとした。門次郎はどうしてよいのか分からず、逃げ回った。

「私には大事な仕事がある。その仕事が終えてからでないと、そんな事、出来ぬ」

「その仕事って何だい?日光東照宮にお仕えでもするのかい}

「いや。人探しじゃ」

「なら、問題無いじゃあないか。ちょっと遊ぶだけなんだから」

「勘弁してくれ。私は頬に傷のある男を探し出さねばならんのだ。その男を見つけてくれたら、お前の相手をしてやっても良い」

 門次郎は部屋の片隅に追い詰められ、畳に手をついて詫びた。門次郎の言葉に、春が声を上げた。

「頬に傷のある男。まさか鶴吉さんのことではあるまいね」

「鶴吉。いや違う。万助って言うんだ」

 春が顔を赤らめた。

「からかわないでおくれ。万助だなんて。お客さん、その気になっておくれかい」

「勘違いだ。おお、そうだ。その鶴吉さんにも、会う約束をしている」

 春は門次郎の意志の固いことを知ると、抱かれるのを諦めた。

「その鶴吉さんなら、小田原生まれで、二日前から、ここに泊っているよ。ちょっと部屋に呼んでみなさるか」

「おお、そうしてくれ」

「その代り、後でお願いだよ」

 春は色目を使って立ち去った。入れ替わりに足音がして、鉄蔵が部屋に戻って来た。

「門次郎。良い湯だったぞ。入ったらどうだ」

「私は後にさせていただきます」

「どうかしたのか」

「兄上。これからここに頬に傷のある鶴吉という男がやって参ります。もしかすると、万助かも知れません」

「何じゃと。あの鶴吉ではないのか」

 言われてみれば確かに豆腐屋の鶴吉には頬に傷など無かった。万助が鶴吉の名を騙っているというのか。門次郎の目は真剣だった。

「小田原生まれで、頬に傷のある男だというので、女中に、ここへ呼んでもらうことにしました」

「もし万助であったなら、それがしたちと気づき、逃亡するであろうに」

 と鉄蔵が言った時、部屋に向かって人の来る足音がした。

「しいーっ。やって来たようです」

 襖の外から春の声がした。

「お客さん。鶴吉さんを案内しました」

「どうぞ」

 春が襖を開けた。

「失礼します。鶴吉さん、中へどうぞ」

 すると襖を開けた春の後ろから鶴吉が顔を覗かせた。

「お待ちしておりやんしたよ。御両人さま」

 満面に笑みを浮かべ、鶴吉が小躍りして部屋に入って来た。鉄蔵が、のけ反って言った。

「おう。本当に豆腐屋の鶴吉じゃ。このような所まで足を運んでもらい、御苦労じゃった」

「全くその通りで。そちらが門次郎さんで?」

「そうだ」

「随分と御立派になられまして」

 鶴吉は門次郎の変わり様にびっくりした。

「門次郎です。お久しぶりです」

 門次郎が鶴吉に丁寧な挨拶をした。その様子を見ていた春が、鉄蔵に訊いた。

「皆様、お知り合いで?」

「そうじゃ。何をしている。三人の膳と酒を、ここに運んでくれ。三人で今宵は飲み明かすのじゃ」

「それはそれは嬉しいお話。急いで用意致します」

 女中の春が喜びいさんで退出して行くのを見計らってから、鉄蔵が鶴吉に質問した。

「ところで鶴吉。その顔の傷はどうしたのじゃ」

「聞いておくんなせえ。実は二ヶ月前の鹿島神宮さまのお祭りで、知り合いの男を見かけたもんで、後をつけたら、突然、侍に背後から斬りつけられまして・・・」

 鶴吉は顔をしかめた。

「背後からとは卑怯千万な侍」

「へ。無我夢中で走り回り、何とか逃げ切ることが出来ましたが、こんなふうに頬に傷を受けてしまい、恥ずかしい話で・・・」

「危ないところであったな。して、その侍は何者じゃ?」

「多分、亀次たちの用心棒でしょう」

「亀次ですと。母上から金を奪って逃げた、あの『大阪屋』の」

 門次郎が興奮した。門次郎の目に強い怒りの色が現れた。目の前で父、只助が斬られた日のことが蘇った。

「左様で御座います。後をつけた、あっしの知り合いとは、亀次のことです」

「鶴吉さん。その卑怯な侍の頬に、深い傷跡は無かったですか?」

「はあ、一瞬のことで覚えておりません。しかし、そいつは鳴滝じゃあありませんよ」

「おぬしは鳴滝万助を知っておるのか」

 鉄蔵は鶴吉に確認した。鶴吉が鳴滝万助を恋敵にしていたことは、中村伊織から聞いて知っていたが、どの程度まで亀次が万助の現状を把握しているか知りたかった。

「知るも知らぬもありませんよ。荒れ狂っている鳴滝の右手を天秤棒で叩いて、刀を放り投げさせたのは、このあっしですからね。それに・・・」

「それに何が?」

「あっしは鉄蔵さんと門次郎さんが、仇討ちの旅をなされてることを知っていました。ですから、鳴滝と関係ある亀次の後をつけてみたんです。何とかして鳴滝を探し出すことが出来ないものかと」

 鶴吉は万助と一緒の琳について語りたかったが、言い出せなかった。

「有難うよ。仇討ちの旅に出て、早や四年。全くの手掛かり無しで困り果てていたところじゃ。して亀次の居所は突き止められたのか」

「へい。磯浜の『万屋』という大店の番頭をしているとの噂です。それも、あっしと同じ、鶴吉を名乗っていやがるんでえ」

 話を聞いて、門次郎は居ても立ってもいられなくなった。

「兄上。亀次のいる磯浜へ行ってみましょう。そこに憎き万助がいるに違いありません」

「鶴吉。おぬしは、そこへ行ったことがあるのか?」

 鉄蔵が訊ねると、鶴吉は怖気づいた。

「この頬に傷をつけた、あの侍がいるのじゃあないかと思うと、恐ろしくて、そんな所へ一人で行けませんや」

「そりやあ、そうだな」

「だが、近くの村の百姓家の者が、『万屋』に借金の形に、娘を連れて行かれたままだと、あっしに『万屋』の悪事を嘆き、何とかならないかというもんで、細かく聞きやんした。すると『万屋』の主人は九兵衛という男で、左頬に大きな古傷があるとのことで、お内儀はお琳という名だと教えてくれやんした」

「成程。常陸に来て、『大阪屋』と同じ稼業を始めてていたということか。それで、鶴吉は、それがしたちが、仇討ちを果たしたら、お琳を小田原に連れて帰るのか?」

「と、とんでもねえ。万助を操るお琳は、てえした悪女ですぜ。一時、お琳の器量に惚れて夢中になりやんしたが、今じゃあ、やなこった」

 それを聞いて鉄蔵が豪快に笑った。丁度、その時、女中が三人、酒肴の膳を持ってやって来た。

「お待たせしました。お酒をお持ちしました」

「おおっ。待っていたぞ。鶴吉についでやってくれ」

 鉄蔵の指示に従い、春が鶴吉に酌をした。

「鶴吉さん。どうぞ」

「かたじけねえ」

 続いて鉄蔵に酌をしながら、春が喋った。

「旅先で、お知り合いと酒を飲むなんて、嬉しい事ですねえ」

「全くだ」

「良かったわね」

 春が門次郎に流し目を送りながら、門次郎の盃に酒を注ぐと、門次郎は答えた。

「うん、良かった。お前のお陰じゃ」

 それから他の女中、夏と篠も男たちの酌の相手をした。鉄蔵が春を酒に誘った。

「お前も一杯、どうじゃ?」

「よろしいのですか」

「良いとも」

 春が女たちに声をかけ、盃を取り寄せたところで、鉄蔵が宴会の口火を切った。

「じゃあ、皆で乾杯と行くか」

「乾杯!」

 一同、賑やかに乾杯した。食膳の準備も整い、次第に酔いが回り始めた。鉄蔵の脇に体格の良い女中、夏が付いた。酌をしながら訊く。

「お客さま、どうぞ。私、お夏と言います。お客様の名は?」

「鉄蔵じゃ」

「まあっ、お強そうな、お名前」

「この旦那は剣術の先生じゃ。強いに決まっている。あっちの方は分からんが」

 鶴吉が冗談を言うと、春が鶴吉に付いている女中、篠に向かって言った。

「そお言う、鶴吉さんは、あっちの方が強いらしいわね。ねえ、お篠」

「お春さんたら、からかわないで下さいよ」

 そう言いながら、篠が鶴吉に擦り寄るのを見て、鉄蔵が豪快に笑った。

「はっはっはは」

「鶴吉さん。こちらさんは、どうなんです?」

 春が門次郎のことを尋ねた。

「門次郎さんか。門次郎さんは女嫌いじゃ。お前の色仕掛けにかかるかどうか」

「門次郎さんて言うんだ。私、名前言ったっけ。お春よ。男ってものは、何でも強くないといけないからね。それと女は、何ていったって愛嬌さ。さあ、飲んでおくれよ」

 春に絡まれ、緊張している門次郎を見て、鉄蔵は今までの自分たちの禁断を解禁することにした。

「門次郎。今宵は無礼講と行こう。鶴吉のお陰で希望が湧いて来た。飲んで飲んで飲み明かそうではないか」

「はい、兄上。鶴吉さん、歌でも唄って下さい」

「よしきた。小田原音頭を唄おう。手拍子を頼むぜ」

「あいよ」

 篠の手拍子で、鶴吉が唄った。

〽小田原良いとこ  後ろは箱根

 前はこゆるぎ   松並木

 相州小田原    別嬪ぞろい

 行くか泊るか   思案橋

 

 来なよ小田原   内緒で一人

 通うお方にゃ   福が来る

 どうせ寝るなら  小田原娘

 右も左も     つぶぞろい

 

 咲いて見事な   小田原つつじ

 もとは箱根の   山育ち

 小田原よいとこ  楽しいところ

 わたしゃあなたを 待ってるよ

 鉄蔵たち三人は何本も銚子のお代わりをして酔いつぶれた。大丈夫だろうか。

 

         〇

 二日後の四月二十七日、三人は磯前神社に祈願した。大鳥居をくぐり、石段を登り、玉砂利の境内を本殿の前に進み、賽銭箱に、小銭を投げ入れ、柏手を打ち、それぞれに願い事を唱えた。

「無事、仇討ちの大願を成就出来ますよう、御助け下さい」

「父の恨みを晴らし、真の侍になれますよう御支援下さい」

「なにとぞ、お琳が改心しますように・・・」

 磯前神社への参拝を終えてから、三人は磯浜の繁華街へと向かった。鶴吉が先頭になって、大店『万屋』を突き止めた。

「鉄蔵さん。こちらのようです」

「中々の店構え。繁盛してそうじゃあないか」

「へえ。煙草の他、紙、味噌、油、穀物を扱うなどして、手広く商売をしているようで」

「亀次は何時も、この店の中にいるのか?」

「あっしも初めてなんで、分かりませんが、多分、店の中に」

 門次郎が店の看板を見て言った。

「兄上。見て下さい。あの店の商標。丸の中に万助の万の字が彫ってあります。まぎれもなく、万助がいるという印です。兄上、踏み込みましょう」

「門次郎。早まるな。『万屋』だ。万の字が彫ってあっても何の不思議はない。急いては事を仕損じる。もっと様子を調べよう。もしかして、向こうから歩いて来るのは、万助ではないのか」

 鉄蔵の質問に門次郎が答えた。

「兄上。違います。万助には左頬に大きな刀傷があります。父上に斬りつけられた時の傷です。あの男は万助ではありません」

「あれは鹿島の大黒屋喜兵衛親分です。小田原の大阪屋甚兵衛親分と繋がっている大親分です。あっしが亀次と出会ったのは、あの親分の所です」

「一緒にいる連中は誰か?」

「大黒屋の用心棒たちです。何しに来たのでしょう」

 鉄蔵たち三人は、物陰に隠れて店先の様子を窺がった。まず子分の伝吉が暖簾をくぐって小僧に挨拶した。

「ごめんよ。鹿島の『大黒屋』だが」

「いらっしゃいませ」

「九兵衛さんに会いに来たのだが、いらっしゃいますかな」

 白髪頭の喜兵衛が訊ねると、店の奥から亀次が跳び出して来た。

「これはこれは『大黒屋』の旦那様。お待ちしておりました。どうぞ奥に入って、おくんなせえ」

 店から出て来た亀次を見て、鶴吉が興奮して言った。

「あれが亀次です」

「間違いない。父上が殺された時、金を盗んで逃げた万助の仲間だ」

 万次郎が興奮した。そこで鉄蔵が鶴吉に顔を向け訊いた。

「あの『大黒屋』の者が、九兵衛さんと言っていたが、万助は九兵衛とやらの用心棒にでもなっているのか?」

「いいえ。九兵衛というのが、お二人の探しておられる鳴滝万助本人です」

「亀次同様、名を変えているというのか」

「そうです。渡世人の世界では、良くある話でして」

 鉄蔵と鶴吉が話している間、『万屋』を見張っていた門次郎が、声を殺して言った。

「兄上。女が泣きながら出て来ました。どうしたのでしょう。仔細を訊いてみましょうか」

「うん。そうしてみよう。鶴吉。声をかけてみてくれ」

 鉄蔵の指示に従い、鶴吉は中年の女に近づいて話しかけた。

「おかみさん。泣いたりして、一体、どうなさったんです。何か辛い訳がありそうだが、差し支え無かったら、あっしらに、その理由を訊かせておくんなせえ」

「他所の人に心配していただく訳には参りません」

「しかし、泣いてるおかみさんを見たら、放っとく訳にはいかねんでさあ。訳を訊かせておくんなせえ」

 鶴吉の優しい言葉に中年女は喋る気になった。鶴吉は彼女を鉄蔵と門次郎のいる物陰に引き入れて、泣いている事情を聞いた。

「私は常澄村のお千と申します。実は今日、『万屋』さんに、娘のお園を返してもらおうと伺ったのですが、借りた金を返さないと、お園を江戸の吉原とかへ売りとばす言って、突き帰されました。まさか、こんなことになろうとは。お父っあんに何と言ったらよいのか・・・」

 話ながら千は夫にどのように話すべきか悩んで、再び泣いた。鉄蔵が労わる様に、千の肩に手をやった。

「泣くでない。『万屋』は金貸しもしているのか。煙草屋と雑貨屋が商売では無いのか」

「はい。『万屋』さんは煙草の他、紙、油、酒、味噌、醤油、米など、何でも扱っております。それに裏で金貸しもしています。お父っあんの病気を治そうと、薬代を借りてしまったのが、いけなかったのです。五両、十両、二十両、三十両、四十両・・・」

 そこまで言って、千は言葉に詰まった。

「そして、娘さんを奉公に出せと言われたんだな」

「はい、そうです」

 鶴吉は頷いた。

「よくある話だ」

「して『万屋』の主人とは、どんな男だ?」

 鉄蔵が続けて質問すると、千は細かく説明した。

「九兵衛さんという、左頬に刀傷のある恰幅の良い旦那さんです。あの旦那さんに睨まれると、怖くなって、身がちじみ上がり、思っていることも言えなくなってしまいます」

「そうか。そいつは、万助に違いねえ」

 鶴吉が相槌を打つように言った。鉄蔵は万助の配下の数を知りたかった。

「使用人は何人ほどいる?」

「鶴吉という番頭を筆頭に、五人程います。その他、荒木玄四郎という、お侍さんが、おられます」

「荒木玄四郎」

「そいつに違いない。あっしを背後から斬りつけた侍は・・・」

 鶴吉が舌打ちをした。千は鉄蔵に尚も泣きながら喋った。

「娘を救うには五十両のお金が要るのです。そんな大金、私には都合出来ません」

「お千さん。心配するな。それがしたちが娘さんを取り戻してやるから」

「本当ですか。本当に救ってくれるのですか」

 千は鉄蔵の袖を揺すって確認した。鉄蔵は千を凝視して言った。

「安心せい。お千さんの説明で、万屋九兵衛の正体が分かった。それがしたちが九兵衛を懲らしめてやる」

 その言葉が終わると同時に、『万屋』の様子を窺っていた門次郎が、小さな声で言った。

「兄上。誰か出て来ました」

「気づかれてはならぬ。隠れろ」

 一同は物陰より更に後退して、塀の陰に隠れて様子を見た。鶴吉が出て来た男を指差した。

「鉄蔵さん。あの男です。あっしを斬ろうとしたのは」

「あやつが荒木玄四郎か」

「はい、そうです。あっ、お園」

 玄四郎と一緒に園と琳が出て来たのを見て、千が園を呼ぼうとするのを、鉄蔵が抑えた。

「声を出してはならぬ。赤ん坊を負ぶっているのが、お千さんの娘だな」

「はい。お園です。その後ろにいるのが『万屋』さんの御内儀のお琳さんです」

「畜生。お琳の奴。やっぱり鳴滝万助の女になって、こんな所にいたのか」

 鶴吉が不貞腐れた。鶴吉が悔しがったが、琳にとっては、万助の方に魅力があったのであろう。琳は店先に出ると、両手を広げ、気持ち良さそうに、外の空気を吸った。園が赤ん坊を背で揺すりながら歌を唄った。

〽磯で名所は   大洗さまよ

 松が見えます  ほのぼのと

 

 水戸を離れて  東へ三里

 浪の花散る   大洗

 

 船は千来る   万来る中で

 私の待つ船   まだ来ない

 園の歌声を耳にして、誰もが聞き惚れた。琳が嬉し気に言った。

「お園の歌は何時、聞いてもいいわねえ。お前の唄声を聞いていると、心が晴れ晴れして来るよ」

「あたいは歌が好きなんだ。野良仕事をしながら、おっ母さんに教えてもらったんだ」

 物陰で千が泣き声を漏らした。

「お園っ」

 母親が物陰から覗いていることも知らず、園はいろんな歌を唄った。

〽私に会いたきゃ 湊においで

 海辺の旅籠の  窓の中

 

 小石を拾って  小窓に向かい

 恋し恋しと   投げしゃんせ

 

 私は驚き    小窓を開けて

 なんだ猫かと  あんたを入れる

 用心棒、荒木玄四郎を連れて、赤ん坊を背負った園の歌を聞きながら、琳が散歩に出かけるのを、見送り、鉄蔵が言った。

「門次郎、鶴吉。万屋九兵衛が万助であるか、顔を確かめ、今夜、仇討ちを決行するぞ」

「はい」

 二人は鉄蔵に向かって頷いた。

 

        〇

 夕方、琳たちが散歩から戻ると、『万屋』の店先に万屋九兵衛が顔を出した。

「お帰り、お琳。野良の景色はどうだった?」

「素晴らしい夕陽だったわ。それに菜の花がいっぱい咲いてて、月が昇って来て・・」」

「それは良かったな。中に入んな」

 琳たちは身体を丸めるようにして店に入った。その万屋九兵衛の左頬に大きな刀傷のあるのを確認し、門次郎が言った。

「兄上。奴は、間違いなく鳴滝万助です」

「鉄蔵さん。あいつが、間違い無く、あっしの目の敵、万助でやんす」

「そうか。では頃合いを見計らって、討ち入ろう」

 鉄蔵が、そう答えて、三人は顔を見合わせた。そんなこととは知らず、琳は店に戻ると、店の次の座敷の脇で、主人の九兵衛の晩酌の相手を始めた。九兵衛は額が広く、頭髪が薄くなりはじめ、左頬にある大きな古傷が、今も凄みを見せていた。その九兵衛が琳に酌をしてもらいながら、気になることを琳に喋った。

「今日、昼前に来た『大黒屋』の親分が、浪人風の若い男が二人、頬に傷のある男を探し回っていると言っていた。もしかして、門次郎たちが、わしがここにいるのを嗅ぎつけ、調べ回っているのかも知れぬ」

「そんなこと考えられましょうか。あんたは万屋九兵衛。名のある大店、『万屋』の主人。何故、鳴滝万助と分かりましょう」

「油断は禁物じゃ。何処で誰が見ているか分からない。それに門次郎の助っ人の高田鉄蔵という男、相当の剣の使い手らしい」

 歳を重ねるごとに、九兵衛は自分の身の動きが緩慢になっているのを感じ、時折、不安になることがあった。

「あんたらしくもない弱気なことを。あんたは剣術では稀代の腕前。高田鉄蔵など恐れることはありません。大吉の為にも頑張っていただきませんと」

「そうだな。大吉の為にも、わしは死ぬ訳にはいかぬ。大吉はどうした?」

「お園が子守りをしています」

「大吉の顔が見たい。お園をここに呼べ」

 琳が立ち上がり、裏の勝手にいる園に声をかけた。

「お園。お園。こちらへおいで」

「おかみさん。何か御用で御座いますか」

「旦那様が大吉を見たいと申しています。大吉を私によこしなさい」

「はい。只今、眠っているところです。そっと、お渡し致します」

 園がしゃがんで、大吉を背中から降ろすと、琳が大吉を抱き上げ、頬ずりをした。

「おお、何と可愛い寝顔。無邪気なこと」

 琳が大吉を連れて行くと、九兵衛の顔がほころんだ。

「全くだ。子供の寝顔は、この世の穢れを知らぬ。何時、見ても良いもんだ」

 その時、鶴吉が大店『万屋』の前に現れた。

「煙草を下さい」

「何になさいますか」

 対応に出た亀次が鶴吉に気づいた。

「誰かと思ったら、鶴吉じゃあねえか。こんな所へ何しに来たんだ?」

「お前も鶴吉って名だってなあ。今日はお前の知り合いを連れて来た」

 鶴吉の後ろに鉢巻き姿に襷掛けをした門次郎が現れた。

「げっ。て、てめえは門次郎!」

 凛々しい身支度の門次郎を見て、亀次は慌てた。

「いかにも浅田門次郎だ。父、只助の仇討ちに参った。鳴滝万助はいずれか」

「鳴滝様は、ここにはいねえ」

「嘘をついても無駄じゃ。手始めに亀次、お前から斬る」

「ひえーっ!」

 騒ぎを聞きつけ、『万屋』の用心棒、荒木玄四郎が駆けつけて来て、門次郎の前に立ちはだかった。

「そうはさせぬ。お前こそ死ね!」

 玄四郎は目を吊り上げ、抜刀した。門次郎は素早く横へ跳んだ。そこへ鉄蔵が登場した。

「荒木玄四郎。お主の相手は、この浅田鉄蔵が致す。お主が卑怯者であることは、鶴吉から聞いた。お主のような奴は、この世から消えてもらわねばならぬ」

「何じゃと、拙者を斬るというのか。面白い。遠慮容赦はしないぞ。タアッ!」

 玄四郎が甲高い声を上げた。鉄蔵の腹を狙って突いて出た。鉄蔵は左側に身体を躱して、微笑した。

「そうはいかぬ。お主の腕では、それがしを斬ることは出来ぬ」

「ほざくな下郎!」

 玄四郎が叫んだ。それに合わせるように、鉄蔵が跳び上がった。

「死ねい!」

 鉄蔵は身体ごと突っ込んで来る玄四郎の刀剣を撥ね上げ、その返しで玄四郎の顔面から胴腹めがけて、斬り下ろした。

「うわあっ!」

 玄四郎の顔をから血が吹き飛び、着物が裂け、前が開いた。玄四郎が両手で腹を押さえてしゃがみ込み、顔面と腹の痛みに耐えているのを見て、鉄蔵が言った。

「鶴吉。やれっ」

「くたばれ、玄四郎!」

 鶴吉が背後から屁っぴり腰で、玄四郎の尻を刀で突いた。

「痛てて、畜生。覚えてやがれ」

 玄四郎は恐怖に顔をゆがめ、腹と尻を押さえて逃走した。

「やった。やった。やったあ!」

 鶴吉が歓喜して跳ね回った。玄四郎が逃走したのを見て、亀次は慌てて店の中に駆け込んだ。亀次の慌てた様子を見て、店の次の間で酒を飲んでいた主人、九兵衛が亀次に訊いた。

「何、騒いでいるんだ。亀次、どうしたんだ?」

 すると亀次は泣きそうな声で九兵衛に伝えた。

「親分。先生が、先生が、玄四郎先生がやられた!」

「何んだと、玄四郎先生が誰に?」

「お、おっ、親分。も、も、門次郎がやって来ました」

 門次郎と聞いて、九兵衛が顔色を変えた。

「門次郎だと!」

「あんた。どうしましょう」

 琳が子供を抱き寄せ、九兵衛にしがみつくと、九兵衛が琳を押し退けた。そこへ門次郎が踏み込んだ。

「見つけたぞ、鳴滝万助。浅田門次郎だ。父、只助の恨みを晴らしに参った」

 九兵衛は呆気にとられた。目の前にいるのは、間違いなく雄々しく成長した只助の倅、門次郎だった。狡賢い九兵衛は空っとぼけた。

「お人違いでは御座いませんか。わしは貴男さまを知らぬ。わしは長年、この地で商いをしている万屋九兵衛という者。鳴滝万助などという男は知らぬ」

「しらばっくれるな。名は隠せても、その顔の刀傷は隠せぬぞ」

 鶴吉が跳び出して言った。

「そうだとも。それに、お琳と一緒では隠しようもあるめえ」

「お前は鶴吉」

「そうだ。てめえに、お琳を取られた鶴吉よ」

「ばれたら、仕方ねえ」

「あんた、刀を」

 琳が座敷の床の間に置いてあった刀を九兵衛に投げた。九兵衛は刀を受け取るや、鞘を放り、身構えた。

「来るなら来い!返り討ちは天下御免だ。返り討ちにしてくれる」

 九兵衛に身構えられ、門次郎は低い青眼のまま身動きをしなかった。それを見て、鉄蔵が怒鳴った。

「どうした、門次郎。万助の子分は、それがしがやる。万助をやれっ!」

「しかし、兄上」

「何を戸惑っているのだ。突っ込め!」

「でも」

 怖気づき狼狽する門次郎を見て、九兵衛が薄笑いを浮かべた。

「門次郎。お前は、わしを討つことは出来ぬ」

「何を言う。門次郎。お前は、この千載一遇の為に腕を磨いて来たんだ。万助をやれっ!」

「兄上。でも万助は赤ん坊を抱いています。私には赤ん坊を斬ることは出来ません」

「門次郎。お前は、父上を殺された悲しみを、もう忘れたのか。浅田家を滅ぼされた恨みを、もう忘れ果てたというのか」

「いいえ。父上を殺された憎しみを、浅田家を滅ぼされた恨みを、何で忘れることがありましょう」

「ならば門次郎。親子もろとも斬り殺すのだ。されば、その赤ん坊が、お前を仇敵と狙うこともあるまい。やれっ!」

 鉄蔵の言葉を受けて、門次郎が白刃を閃かせて九兵衛に突進した。

「うおーっ!」

 九兵衛は咄嗟に身を翻し、琳に向かって言った。

「お琳。大吉を頼んだぞ」

 九兵衛が抱かえていた大吉を琳に向かって放り投げた。大吉を上手に受け取った琳が、震えを帯びた声で叫んだ。

「あんた。そんな若造に負けちゃあ駄目だよ」

「当たり前だ。早く大吉を連れて逃げろ」

「そんなこと分かっているよ。お園、来るんだ!」

 琳が、赤子守りの園の手を引っ張った。亀吉がそれを制した。

「おっと、それはならねえ。お園ちゃんは、てめえには渡さねえよ。お千さんから、お園ちゃんを取り戻してくれと頼まれているんだ」

「畜生。亀次、ついておいで」

 琳は、亀吉に園を奪われ、顔を怒らせ、側にいた亀次に言った。琳が亀次と逃げるのを見て、鉄蔵が鶴吉に命じた。

「鶴吉。お琳をやれっ」

「合点でえ」

 逃げる琳を鶴吉が追いかけ捕まえた。そして赤ん坊を抱かえる琳の右腕を刀で斬った。

「お琳、覚悟してくれ」

 琳が顔を歪めた。鶴吉はためらわず、更に、琳の腰を刺した。

「あああ、鶴吉・・・」

 琳が赤ん坊を抱いたまま倒れた。亀次が身震いして刀を構えた。

「や、やりやがったな」

 鶴吉と亀次が睨み合った。琳は身体に傷を負いながらも、泣く大吉を抱え、這いずり回った。その琳に駆け寄ろうとする九兵衛に、門次郎が言った。

「万助。邪魔者は消えたぞ。積年の恨みを晴らしてくれよう。覚悟っ!」

「覚悟するのは、てめえの方だ。キエーッ!」

「うわあっ!」

 門次郎が万助の刀を受けて、後ろによろけた。九兵衛が、今ぞとばから振りかぶった。

「返り討ちだ!」

 門次郎は斬られると思った。瞬間、鉄蔵の長刀の切っ先が九兵衛の正面に伸びた。

「おっと。ここで門次郎を死なす訳にはいかぬ。それがしが、相手となろう」

 九兵衛の顔色が蒼白に変わった。血の気が失せ、恐怖と憤怒で、目元を引き攣らせ、激しい口調で言った。

「おぬしが高田鉄蔵か。助太刀とは卑怯だぞ」

「それがしは小田原藩主、大久保忠真様から、ちゃんと仇討ち免許状を頂戴している浅田只助の養子、浅田鉄蔵である。正々堂々の仇討ちである。何で卑怯なものか。行くぞ」

「ち、畜生。やれるものなら、やってみろ」

「良い覚悟だ。それっ!」

「くそっ」

 九兵衛が鋭い叫び声を発し、身体ごと突っ込んで来た。鉄蔵が跳んだ。

「万助、死ねい!」

「ぎゃあっ!」

 九兵衛の右肩から鮮血がほとばしり出た。鉄蔵が門次郎に命じた。

「門次郎。今だ。突っ込め」

「ええい!」

 門次郎が突っ込み、九兵衛のあばらへ刀を突き刺した。

「あああ・・・」

「門次郎。とどめを刺せ!」

 門次郎がよろける九兵衛の左肩から左腕に一刀を下した。すると九兵衛はダラダラと血を流しながら、呻り声を上げて倒れた。

「ううう・・・お琳。大吉」

 九兵衛は地面につっ伏したまま動かなくなった。門次郎が天を仰ぎ、引き攣ったような声を上げた。

「母上。姉上。父上の仇を討ち取りましたぞ」

「よくやった。門次郎」

 鉄蔵はそう言うと、懐紙で自分の刀身の血をぬぐって、納刀した。鶴吉が九兵衛の死体の周囲を駆け回った。

「やった。やった。やった」

 鉄蔵と門次郎は九兵衛の死体の脇に正座して、村役人が来るのを待った。その惨劇の後を見物人たちが取り囲んで、ざわめき立った。事件を聞きつけ、村役人が五人程、やって来た。

「お役人が来たぞ」

「静まれ、静まれ」

 『万屋』の周囲に恐る恐る集まった大勢の見物人たちは、役人がどう処理するかを興味深く注目した。役人の代表、渡辺四郎兵衛が、地面に正座している鉄蔵と門次郎に向かって、問い質した。

水戸藩より、御用をあずかる渡辺四郎兵衛である。仇討ち事件と聞き、駈けつけて参った。如何、相成ったか?」

 路上に門次郎と一緒に平伏した鉄蔵が答えた。

「御役目、御苦労様に御座います。それがしたちは小田原藩足軽、浅田鉄蔵と門次郎と申す者。兄弟、小田原藩主、大久保忠真様から、御覧の仇討ち免許状をいただきし者。只今、その仇、鳴滝万助なる者を討ち取りましたところで御座います。この地を穢し、誠に申し訳御座いません」

「見事、本懐を果たされたと言うのか。御苦労であった。その仔細について、口上書をもって、藩公、徳川斉脩様に、お届け申す。明日、死体検分が終わるまで、この地にて、お控え下されよ。今夜は、そこに居る『成田屋』に泊めさせてもらえ。明日、また会おう」

「ははーっ」

 鉄蔵と門次郎は立ち去る渡辺四郎兵衛とその従者に頭を下げた。園の母、千が事件を聞きつけ、やって来たのを見て、鶴吉が園に声をかけた。

「お園ちゃん。お千さんが、迎えに来ているよ」

 今まで、腰を抜かしていた園が我に返り、母親を見つけた。

「おっ母さん!」

「お園!」

 千と園の親子は涙をぼろぼろ流し、薄暗くなった路上で、しっかと抱き合った。それから母親、千が鶴吉に礼を言った。

「この御恩、一生、忘れません」

 鶴吉は照れた。

「礼なら、あの二人に言ってくんな」

 鶴吉は嬉しそうに、そう言って笑った。

 

         〇

 翌朝、『成田屋』に使いが来て、鉄蔵と門次郎は、鶴吉を小田原に帰し、昨夕の事件現場に出向いた。そこで渡辺四郎兵衛ら役人たちが万屋九兵衛の死体検分を行った。役人たちは最初に万屋九兵衛の検死状況を書きとめた。

一、左の耳より頬まで切り下げ。長さ五寸、横四寸三分。

二、首左右より矢筈に切り下げ、前の方、皮にて続く。但し、長さ一寸程の古疵、これあり候所、太刀傷とも見分け難く候。長さ九寸三分。、深さ三寸程。

三、右の肩先より、背に掛け、長さ一尺六分、深さ二寸。

四、右の襟元より二の腕まで切り下げ。長さ一尺二分、深さ三寸。

五、右の二の腕、長さ三寸、深さ一寸。

六、左の手、大指切落し。

七、背より左の腕に掛け、長さ九寸七分、深さ二寸。

八、左のあばら、長さ八寸四分、深さ八分程。

九、左の足ひざ下、長さ四寸一分、深さ一寸。

*都合疵九箇所。

 役人たちは九兵衛の死体の検死状況の記録が済むと、次に九兵衛の妻、琳の検死状況を書きとめた。

一、右腕、長さ一寸、深さ二分。

二、右の細腰、長さ六寸、深さ一寸。

*都合疵二箇所。

 それから鉄蔵と門次郎は庄屋太兵衛の屋敷に連れて行かれ、水戸の役人が来るのを待った。正午前に寺門市兵衛ら水戸の役人が来て、関係者に聞き取りを行った。そして水戸藩の『検死吟味口上書』が出来上がった。それから鉄蔵と門次郎の二人は白門屋喜右衛門の屋敷に身柄を預けることとなった。

 

         〇

 五月初め、水戸藩から鉄蔵と門次郎の身柄送り届けの通知を受け、小田原藩主、大久保忠真は江戸の藩邸から、出迎えを出した。その出迎えを受け、鉄蔵と門次郎は5月15日の夕刻、江戸の上屋敷に到着。そこで、鉄蔵と門次郎は何年も歳月を費やし、計画を実行した経緯の聴取を受けた。そして五月十八日、浅田兄弟は、小田原に帰った。小田原では浅田一門の者をはじめ、報に接した藩士たちが、二人を待っていた。二人は城門前で、母、菊らに仇討ち報告を行い、伊谷治部右衛門に案内され、城内に入った。大橋利十郎を先頭に、藩の重臣たちが二人を出迎えた。浅田家一門の者たちも、特別に城内に迎えられ、二の丸書院前の庭に正座した。三幣又左衛門が集まった浅田家一門の者たちに言った。

「浅田鉄蔵、門次郎兄弟。その方たちの仇討ちの始末、水戸藩より、詳しく報告があった。只今より、両人は勿論のこと、浅田家の縁者一同に対し、殿より直々のお話が御座る」

「ははあーっ」

 一門の代表、浅田五兵衛に従い、一同、平伏した。三幣又左衛門が更に続けて言った。

「その前に、ここにおられる御重臣の皆様方から、一同に対し、質問があるので、質問を受けた者は、分かりやすく、包み隠し無く、正直に喋れ。良いな」

「ははあっ」

 その質問は大年寄、杉浦平太夫から始まった。

「杉浦平太夫であ。浅田鉄蔵、門次郎兄弟。四年に及ぶ長きに亘り、仇討ちの旅、御苦労で御座った。その執念たるや立派なものじゃ。その執念を、どのようにして保ち得たか知りたい」

 平太夫の質問に鉄蔵が目を輝かせて答えた。

「それがしは生前、一方ならぬ御世話になった義父、浅田只助の無念を、我が身に置き換え、ひたすら艱難に耐えました。また仇討ちの御免許を下されました、お殿様との御約束を果たさねばと、昼夜、神仏に祈って参りました」

 兄、鉄蔵に続いて、弟、門次郎が答えた。

「私は十歳の時、父、只助が目の前で惨殺された衝撃を絶えず思い浮かべ、兄上に励まされながら、執念を忘れずに、日々、仇討ちを考え続けて参りました。また小田原で私たちの帰りを待っている母上や姉上のことを思い、頑張ることが出来ました」

 そう答える門次郎の目も輝いていた。平太夫は優しく笑った。

「左様か。両名とも親兄弟を思い、良くぞ頑張った。近頃に無い武士道の鑑である」

「お褒めにあずかり光栄に存じます」

 杉浦平太夫の質問が終わると、三幣又左衛門が次の重臣に声をかけた。

「吉野様、どうぞ」

 すると声をかけられた恰幅の良い吉野図書が質問した。

「家老の吉野図書である。四年に及ぶ長旅をしたと聞いたが、どこら辺りまで旅をしたのじゃ」

 それに鉄蔵が答えた。

「脱牢した鳴滝万助が箱根を越えたと聞き、まず駿河に走り、三河を経て、それから東海道を京に向かい、更に山陽道を進み、備前玉野から讃岐に渡り、四国巡りをして後、長州に参りました。長州で、それらしき人物に出会いましたが、人違いでした。更に旅を続け、筑紫、薩摩まで足を運びましたが、仇敵は見つからず、再び、もと来た道を引き返し、途中、伊勢、四日市に立ち寄り、それから中仙道経由で江戸に入りました。そして江戸で探索中、知人の知らせにより、仇敵が水戸のはずれにいるのを突き止めました」

「南国薩摩まで行ったとは、厳しく辛い旅であったのう」

「はい。鳴滝万助が、箱根を越え、東海道を京に向かったとの噂を信じた為の、辛酸の旅でした」

 鉄蔵の答えに図書が頷いたのを見て、又左衛門が服部十郎兵衛に声をかけた。

「服部様、どうぞ」

「家老の服部十郎兵衛である。鳴滝万助と再会した時、直ぐに万助と分かったか?」

 その質問に鉄蔵が口ごもるのを見て、門次郎が答えた。

「はい。直ぐに分かりました。はじめ鳴滝万助は人違いだ、わしは万屋九兵衛だと、しらをきりましたが、父と争った時の傷は隠せやしません。私の脳裏に、はっきりと仇敵の面相が刻み込まれておりましたから・・・」

 鳴滝万助が小田原にいた時の行状を知っている十郎兵衛は更にに質問した。

「仇敵の万助は手強かったであろう」

「はい。荒木玄四郎なる用心棒たちがいましたが、その者は兄上が討ち、鳴滝万助は私が討ちました。私にとって恐ろしく手強い相手でしたが、逞しい兄上に助けてもらい、仇討ちが出来ました」

「あの乱暴者の鳴滝万助を、よくぞ成敗出来たものじゃ。感心するばかりじゃ。良かったのう、大橋利十郎」

「は、はい」

 牢奉行、大橋利十郎は上司、服部十郎兵衛に深く頭を下げた。その時、大勢の者が廊下を歩いて来る足音がした。

「殿がお見えになられましたぞ。一同、平伏して迎えよ」

「ははーっ」

 又左衛門の言葉に、一同、緊張して平伏した。

「こちらで御座います」

 磯田平馬に案内され、藩主、大久保忠真が一同の前に現れた。忠真は声をはずませて言った。

「高田鉄蔵。いや浅田鉄蔵。それに門次郎。見事、本懐を果たしての帰参、誠に天晴である。忠真、心より、褒めてつかわす」

「有難き仕合せ」

「仇討ち決闘の凄絶さは水戸藩の検死吟味口上書から、どんな有様であったか、こと細かに知った。ここにあらためて質問するつもりは無いが、水戸藩士、徳川斉脩公も、今時にまれなる武人の行為であると褒められておられた。そのようなそちたち正義を貫く家臣を持って、忠真も鼻が高いぞ」

「勿体無き御言葉」

 藩主、忠真の言葉をいただき、鉄蔵と門次郎は深く低頭した。忠真は続けた。

徳川斉脩公のその後の調べによれば、万助は金貸しの他、許可無く異国船と交流していたとの疑いもあり、この度のそちたちの仇討ちにより、今まで隠蔽されていた万助の悪事が、より明白になったとのことである」

「異国船と・・・」

「これは斉脩公からの褒美じゃ。受け取るが良い」

「ははーっ」

「有難き仕合せ」

 忠真は磯田平馬より、水戸の斉脩公が贈与してくれた反物を受け取り、二人に一式ずつ手渡した。それから二人の後方に控えている母と娘に目をやった。

「して、留守宅を守っていた母親と娘よ。そちたちの労苦は、この平馬から、よく聞かされておった。実に長きに渡り、我慢辛抱してくれた。そちたちの辛抱と男たちへの思いがあったればこそ、鉄蔵と門次郎は信念を燃やし続け、仇討ちに成功することが出来たのである。そちたちの功績もまた、男たち同様、大なるものであった」

 藩主の言葉に感激し、菊が涙をいっぱいためて答えた。

「畏れ多い事に御座います。お殿様から三人扶持をいただいた上に、私には特別な妙薬を賜り、私の病気もすっかり治り、このように健康な身体に回復致しました。その上、お褒めの言葉を頂戴致すとは、恥ずかしい限りで御座います」

「何も恥ずかしがることは無い。健康な身体に回復したのを見て、余も嬉しいぞ。只助の分、長生きしてくれ」

「はい」

 母と一緒に涙ぐむ娘を見て、忠真が訊ねた。

「娘よ。名は何と言ったかの}

「はい。千佳と申します」

「母親の看病をしながら、朝早くから夜遅くまで働き続け、よく頑張った。その親孝行には涙ぐましいものがある。よって、そちたち親子には、この反物を贈呈する。受け取ってくれ」

 忠真が平馬から反物を受け取り、菊と千佳に与えた。戸惑う母娘に平馬が脇で言った。

「有難く頂戴致せ」

「は、はい」

「有難う御座います」

 女たちに反物を手渡してから、忠真が再び、浅田兄弟に向かって喋った。

「さてさて浅田鉄蔵、門次郎の兄弟。そちたちのこの度の働き、水戸の斉脩公と共に、余も非常に感激致した。まさに武門の名誉である。戦国の世が夢物語となった今、侍たちは武芸を練ることを忘れ、遊惰淫蕩に浸り、全く腐りきっている。そんな中でのそちたちの忠義と悪への復讐は、実に尊いものである。よって、そちたち兄弟を武士の鑑として、士分に取り立て、五十石を与えることに致す」

 その言葉を頂戴して、浅田兄弟は勿論のこと、浅田家一門の者たちは、びっくりした。鉄蔵も門次郎も言葉が出ない。家老の吉野図書が、微笑んで唖然とする鉄蔵と門次郎に声をかけた。

「良かったな。鉄蔵、門次郎」

「はい。沢山の御褒美を頂戴した上に、かくも過分のお取り計らいを賜り、鉄蔵、まるで夢のようで御座います。この御恩に報いるよう、尚一層、励みます」

 鉄蔵が喜びを語ると、門次郎も、それに続けた。

「父、只助が殺められ、亡くなられてから五年。頑張った甲斐がありました。門次郎もまた、今日の日を忘れず、お殿様の御心を大事にし、家督を立派に継いで参ります」

 二人の言葉を聞いて忠真は満足した。

「まさに曽我兄弟の仇討ちに比肩する程の見事な仇討ちであった。鉄蔵、門次郎。落ち着いたなら、今度は江戸で会おうぞ」

「ははーっ」

「千佳とやら、鉄蔵の良き妻となるのじゃぞ」

「は、はい」

 赤面する千佳を横目に、忠真はニヤニヤしながら、家臣と共に一同の前から立ち去った。門次郎が堪えきれず、母にしがみつき、泣き叫んだ。

「母上っ!」

「門次郎!」

 と同時に鉄蔵と千佳も立ち上がり、互いの名を呼んだ。

「鉄蔵様・・・」

「お千佳!」

 二人は、人目をはばからず抱き合った。三幣又左衛門と大橋利十郎は呆れ返った。二人を囃すように一門の者が喝采を送った。そこへ突然、鶴吉が躍り出て来て駆け回った。

「やった、やった、やった」

 そんな鶴吉を見て、一同が、どっと笑った。

 

         〇

 その後の鉄蔵と門次郎は藩公、大久保忠真への忠節に励むと共に、自分たちの親孝行は勿論のこと、討ち取った鳴滝万助の母親が亡くなるまで、その面倒を見てやったという程、誠実実直な生き方をした。ある時、高長寺の僧に万助の母が言ったという。

「万助の昔からの馴染みの友達が、世間をはばかり、名を隠し、私の所へやって来て、とても親切に世話をしてくれるので、誠に有難いことです」

 目の見えない万助の母は、その幼馴染みの友達のことを、死ぬまで信頼し続け、この世を去ったという。一方、万助の子、大吉は、常澄村の園の弟として育てられ、無事、大人になったという。

 

        《 完 》