露草物語

 道端の石に坐っていた老婆が、今では遠い昔の話であるがと前置きして、話してくれた物語である。記録しておくべきか否か迷ったが、メモ書きにしておいたので、それを綴る。7世紀の天武天皇の時代の話で、当時の上毛野には5人の豪族がいたという。檜前王、甘楽王、来馬王、磯部王、多胡王の5人だ。その五王の1人、磯部王に美しい姫君がおられた。その姫君は露草姫と呼ばれていた。上毛野の男たちは、貴賤を問わず、露草姫に憧れた。当然のことながら、他の檜前王の息子、甘楽王の息子、来馬王の息子、多胡王の息子も露草姫を妻にしたいと恋焦がれた。中でも甘楽王の息子、葦長王子が夜昼となく通って来る程、夢中になった。磯部王は甘楽王の息子なら良いだろうと、2人の結婚を考えていた。ところが磯部王が柿平という所でイノシシや鹿や野兎を捕まえる「シシ追い」を行った時、同行していた露草姫がマムシに噛まれて、身罷られた。その露草姫の不慮の死を磯部王の一族の者は勿論のこと、従者や村人たちが悲しんだ。露草姫を是非、妻にしたいと願っていた甘楽王の息子、葦長王子は、露草姫の死を知るや、一晩中、鏑川の畔で泣き明かした。露草姫の死去を悼み悲しんだのは磯部王一族や葦長王子だけでは無かった。上毛野の多くの人たちが、露草姫の死を悲しんだ。磯部王は「シシ追い」に露草姫を連れて行ったことを後悔した。天皇が近江の蒲生野で遊猟する時、女性も参加させていると長谷部黒麻呂が言ったので、露草姫を同道したのが失敗だった。狩りを指揮した野尻比等主をはじめ、若い兵士も農民も奴隷たちも、露草姫に随行した女たちも、姫君を乗せた馬も忠実な犬も、皆、姫君の死を悲しんだ。それは姫君を危険から救出出来なかった責任からの死を予期しての悲しみばかりでは無かった。日頃の露草姫のまばゆいばかりの美しい御姿と明るく優しい心使いを思い出しての愛惜しさから来る悲しみだった。

 

         〇

 露草姫の屍は柿平に建てられた殯の中に7日間、納められた。磯部王は大和王朝の墳丘墓を築造するのを手伝った経験があることから、可愛い娘の為の墳丘墓の築造を計画した。先ず、碓氷川の大石を川から引き揚げ、石工職人に石棺を7日間で作らせ、その冷たい石棺を娘の永遠の寝床とした。また部下に墳丘墓についての指示を与えた。磯部王は露草姫が山菜採りに出かけたりして妙義山を眺めて遊んだ小さな丘に、自ら設計した円墳を作らせた。その円墳造りに兵士や農民や奴隷たちが参加した。甘楽王の従者たちも、その築造に協力してくれた。碓氷川や鏑川から大きな石を運んで来て、石室を組み立て、その上に土を盛り上げ、円墳を築いた。土師部には素焼きの馬や犬や家や人型や花筒を円墳の周囲に並べる為、沢山、作らせた。葦長王子のような他部族の者までもが露草姫の墳墓造りに協力したが、反対者もいた。大和に親族がいる長谷部黒麻呂は墳墓造りに熱心でなかった。

「露草姫様を亡くされたお嘆きは分かるが、何も多くの人足を使い、墳墓を造り、死者を石室などに閉じ込めて置かなくても良いのに。火葬を行い、立ち上る煙と共に姫様の霊魂を天界に送ってやれば、姫様も明るい天界でお暮しになれるのに。大和の貴人は、火葬を望まれるというのに・・・」

 黒麻呂は墳墓の築造の指揮をせねばならないのに、仕事を好い加減にして、気品があり、美しかった姫君のこと思った。忘れられなかった。姫君の死を悲しみ続けた。だが男という生き物は真に勝手だ。

 

         〇

 長谷部黒麻呂は、墳墓造りの指揮を終えて、家に帰ると、直ぐに郷原に住む里長の娘、白妙郎女の所へ夜這いに行った。文字通り、里長、郷原古麻呂の屋敷の庭を這っての忍び込みである。黒麻呂は文武両道の美青年だったので、白妙郎女も、黒麻呂が、ホッホー、ホッホーとフクロウの鳴き真似をすると、自分の部屋の戸をそっと開けた。次の瞬間、黒麻呂は黒い風のように郎女の部屋に流れ込んだ。そして郎女を家から外に連れ出し、何時ものように外の納屋で密会した。納屋の中に入ると干し草の香りがした。高窓から、満月が中を覗き込んでいるが、2人は月光など気にしなかった。むしろ有難く思った。黒麻呂は、夕方、帰リ道で手折ったエゴの木の白い花を郎女に差し出した。郎女は、その匂いを嗅ぐと、その芳香にうっとりとして、その花を納屋の中の干し草の上に放り投げ、自らも干し草の上に身体を投げ出した。黒麻呂は、その白妙郎女を上から見下ろした。郎女は仰向けに寝そべりながら、黒麻呂を引き込むような悩ましき微笑を浮かべた。黒麻呂はそんな郎女の上に、ドサリと乗っかり、郎女と重なり抱き合った。干し草の上で、揉み合う音が起こり、長く激しく続いた。黒麻呂は郎女との長くねっとりした濡れ事の中で、自分の心の内に呟いた。

:我は、何故に、この白妙郎女を抱けるか?

 我は、何故に、この郎女を抱けるか?

 我が抱きまほしと思えりは、

 かの露草姫でなかりしや。

 かの香しき露草姫でなかりしや。

 ああ、我は何故に、この郎女を抱けるか?

 日夜、あまで恋こがれ給いし、

 かの露草姫の身まかりし今、

 我は何を念ふや。

 そを悼み悲しまで、心痛きに構わず、

 郎女を恋ふる我が心、この心、

 如何にせん。           :

 長谷部黒麻呂は白妙郎女と交わりつつも、露草姫の事を考え続けた。一方、白妙郎女は、黒麻呂の逞しい身体に抱かれ、肌を火照らせ、よがり声を上げた。

:碓氷川、波音立てよ、我が恋し、

 君が来たりて、紐解き乱れむ    :

 白妙郎女は、喘いで喘いで喘いだ。干し草の上に投げ出された白いエゴの花は、揉みにもまれ千切れてしまった。あたかも長谷部黒麻呂と白妙郎女が、見えざる運命の手によって千切られるのを予言するが如くに・・・。

 

         〇

 長谷部黒麻呂は白妙郎女との一夜を明かして、明け方の露に濡れて、仕事場に向かう時には、もう露草姫のことなど忘れたと言って良い程だった。恋しくも悲しくも思わない風情だった。だが、路傍に咲く、露草の寂し気な青い花を目にすると、再び露草姫のことを恋しく思った。黒麻呂が、磯部王の館に行くと磯部王は未だに愛娘の不幸な悲しみから抜け出せないでいた。露草姫の笑顔は磯部王と妻、絹目刀自にとって、この上なく愛おしく、その哀れな娘の死を思うと、胸が張り裂けそうで苦しくてならなかった。娘は、どう考えても、もういない。悲しさと愛おしさが募り、涙が込み上げて来る。一体、どうすれば娘は穏やかに眠ることが出来るのだろうか。磯部王はじっと考えた。磯部王は館に現れた黒麻呂を見て、考えた。この男だ。女衆を加えた「シシ追い」を提案したのは黒麻呂だ。この男は露草姫と気が合うようで、大和歌などについて、意見を交わす親しい仲でもあった。彼が傍にいたら、娘も寂しくは無かろう。1人だけでは足りない。もう一人を誰にするかだ。そうだ。名山の豪傑、武熊を据えよう。磯部王は、露草姫の守り役として、黒麻呂と武熊を選出し、露草姫の墳墓を守らせることにした。

 

         〇

 夜を日に継いで造り続けて来た露草姫の墳墓が出来上がった。磯部王は露草姫の石室への埋葬の儀についての式次第を、大勢集まる前で、重臣、野尻比等主に発表させた。その発表で、長谷部黒麻呂は名山武熊と共に墓番に任命された。黒麻呂は、それを聞いて、驚愕し、身の毛が逆立ち、ブルブルと恐怖に震えた。だが、役目を拒否することは出来なかった。翌日、露草姫の埋葬の儀は、甘楽王、来馬王、多胡王などを招き、盛大に行われた。露草姫の御遺体の納められた石棺は、碓氷川の畔りから、妙義山を背後にした横野ヶ原の丘に多くの人足によって運ばれ、円墳内部の石室に搬入された。長谷部黒麻呂は、野尻比等主の指示に従い、名山武熊と一緒に石室内に入り、中央に鎮座する露草姫の石棺の前に立った。いよいよ露草姫はこの世を去って、別の世界で暮らすのだ。磯部王は黄泉の世界へ旅立つ愛娘に、彼女が日頃、所有していた物や使用していた物を持たせてやる事に、妻、絹目刀自と共に神経を使って、選定した。首飾り、宝石、鈴、鏡、太刀、水差し、冠、衣装、帯、靴、武具、人形などなど。露草姫が、それらの品物を、あの世でも使うことを誰もが信じて疑わなかった。宝石類などは、露草姫の眠る石棺に入れられた。土師部が作った馬や犬、兵士、女人、花筒などの埴輪は円墳の周囲に飾られた。長谷部黒麻呂と名山武熊は姫の身辺警護に勤めるよう命ぜられ、冷え冷えとした石室に押し込まれ、閉じ込められた。石室の入口の大きな石の扉が、奴隷たちによって閉じられた。石室の扉が完全に閉じられたのを確認すると、磯部王以下、全員が露草姫の円墳に手を合わせ、露草姫の冥福を祈った。そして露草姫を円墳に納めた一同は、葬儀を終え、露草姫の墳丘から去って行った。その横野ヶ原の丘では野菊の白い花が寂しそうに揺れていた。

 

         〇

 長谷部黒麻呂は真っ暗な石室の中にいた。石室の中は真っ暗だったが、入口の石の扉の外側にまだ土が盛られておらず、石の扉と石垣の間から僅かではあるが、外の光が射し込み、目が慣れると、石室の隅々まで見渡せるようになった。墳墓の中は暗黒の世界では無かった。黒麻呂は名山武熊と向かい合い、時が過ぎるのを待った。息絶えれば、入口の左右の石塔の下に埋められるに違いない。黄泉の国からの迎えが来るまでの辛抱だ。どの位、時間が経過したのだろう。墳墓の外に夜が訪れたようだ。夜風の音に交じつて、ヒイヒイと埴輪と一緒に埋められた女や奴隷の、うめき声が続いた。黒麻呂はその気味悪い声を聞くのが嫌で、両手で自分の耳を塞いだ。だが武熊は平気だった。財宝で美しく飾られた露草姫が眠る石棺の傍らに正座して、微動だにしなかった。黒麻呂はあの優しく美しかった露草姫に近づきたかった。だが、近づくことはならぬとばかり、武熊が石棺の脇で、目を光らせている。黒麻呂は正座している武熊を、じっと見詰めた。武熊も、じっと黒麻呂を見詰め返した。武熊は冷静さを装っているが、迫って来る暗黒の世界に怯えていた。新しき別の世界。それはどんな世界か。黒麻呂は、その世界を想像した。美しい主人に付き添って行く世界。それは如何なる世界であろう。黒麻呂は新しい世界の使いが迎えに来るのを待った。しかし、何時まで経っても、その使いは来なかった。と突然、武熊が立ち上がり、つかつかと黒麻呂の脇に来て、窪んだ鋭い目を不気味に光らせて言った。

「黒麻呂、逃げよう」

「逃げる?」

 黒麻呂には武熊が言わんとしていることが理解出来なかった。何故、逃げるのか。何故、主人を見捨てて逃げるのか。黒麻呂は武熊に問い返した。

「何故?」

「黒麻呂。お前は、このまま死んじまっても良いのか。お前の父や母は、お前が生き返って戻るのを、密かに願っている筈だ。黒麻呂。お前は食事もせず、ここにこうしていたら、本当に死んじまうぞ。それで良いのか?」

「俺は待つのだ。新しい世界の死者が迎えに来るのを。そして俺は磯部王の命令に従い、何処までも、露草姫様にお仕えするのだ」

「馬鹿野郎。姫様は死んでしまったのだ。新しい世界なんて、あるものけえ。さっ、逃げよう。ここから脱け出すんだ。あるったけの金銀財宝を持って、妻や子供や年老いた父母のいる村に帰るんだ。お前にだって好きな女子がいるんだろう。さあ、2人して力を合わせ逃げよう。ここから脱出して、お前の好きな女子を抱いてやるんだ」

「俺は嫌だ」

「嫌だとう。この抜け作めが。お前は死ぬのが怖くないのか。こんな中にいたら、あと幾日も経たぬうちに死んじまうぞ。死んだらもう、お前はこの世にも、どの世にもいなくなっちゃうのだぞ。そしたら、お前の父や母や兄弟や、お前のことが好きな女子が、どんなに嘆くことか。それではもう遅いんだ。黒麻呂。品物を集めろ!」

 武熊は、そう言うと、火打石を使い、松明に火を灯した。そして露草姫の眠る石棺に近づいて、黒麻呂に命令した。

「黒麻呂。石棺の蓋を開けるから手伝え」

「石蓋を二人で持ち上げるなんて無理だ」

「頭を使え。幾つもの槍棒を使い抉じ開けるんだ。そうすれば、石蓋を退けられる。さ、やろう」

 黒麻呂は武熊の命令に従い、飾ってあった槍棒を石棺の縁と石蓋の間に数本打ち込んだ。そして、渾身の力を込め、2人で声を合わせて、石蓋を抉じ開けた。

「一、二、三!」

 すると石蓋は横滑りして、ゴトンと床に落下した。石棺の中を覗くと青白い露草姫の顔が浮かび上がった。武熊の太い手が、その露草姫の首にしている翡翠の首飾りを外そうと伸びた。それを見て、黒麻呂はカッと熱くなった。何てことをするんだ!そう思った瞬間、黒麻呂は腰の剣を引き抜いていた。黒麻呂の黒い影が異様なのを感じ、武熊が振り返った。その武熊の顔面に黒麻呂の剣が殴り下ろされた。

「ウ、ギャーッ!」

 鼓膜を破るような絶叫と共に茶色の血飛沫が飛散した。松明を持った武隈は剣を抜きながら、鬼のような形相で、黒麻呂を睨みつけた。黒麻呂は、殺されるのではないかと、蒼白になった。凶暴な月の輪熊が襲い掛かって来るような大きな影が、黒麻呂を襲って来た。次の瞬間、その大きな影は黒麻呂の眼前で、ドサリと倒れた。それと共に松明が床に落ち、石室の中がポッと暗くなった。黒麻呂は倒れている武熊に駆け寄り、もう一突き浴びせた。武隈は何の声も上げなかった。黒麻呂は消えかかろうとする松明を手に取り上げて、武熊の姿を確認した。武熊は恐ろしい死に顔をしていた。目は跳び出して光り、油ぎった血が血液を吸う蛭のように、ヌラヌラと光って動いている。武熊は死んだのだ。黒麻呂は悪逆非道を繰り返して来た武熊の死体を見て、この死体こそ、地獄に運ばれて行く死体だと思った。しかし、その恐ろしく目を光らせた死体は、何時になっても消えてくれなかった。美しい露草姫と同じように、暗い石室の中に横たわっている。黒麻呂は武熊の死体をずっと見詰め続けた。何の恐怖も起らなかった。

 

         〇

 黒麻呂は、しばらくして松明の灯りを手にして、露草姫の眠る石棺に近寄った。そして石棺の中を確かめた。灯りに照らし出された露草姫は、青白い顔をして、かすかな笑みを見せて眠っていた。黒麻呂は、その美しい顔を見降ろし続けた。純白の衣装を着た姫君は、まだ清純さを失っていなかった。処女の美しい身体をしていた。黒麻呂は、姫君にそっと接吻してみた。ドクダミの匂いに似た臭気が、つうんと鼻をついた。その瞬間、黒麻呂は武熊が叫ぶ声を聞いた。しかし、それは気の所為だった。気の所為だったが黒麻呂は露草姫から離れると、再び剣を引き抜いて、武熊を斬りまくった。武熊の死体は、ぐうともすうとも言わず、転がる丸太同然だった。黒麻呂は武熊が完全に死んでいるのを確認し終えると、再び石棺に接近し、露草姫を見詰めた。青白い顔をした露草姫は白い衣装に身を包み、翡翠の首飾りをして、手を祈るように胸の上で合わせて瞑目している。最早ここには誰も見ている者はいない。自分が何をしても、誰も知るまい。黒麻呂は悪だくみを起こし、再び姫君に接吻した。それから露草姫の美しい衣装を静かに剥がし、石棺から姫君の裸身を引き出した。そして、そっと抱いてみた。黒麻呂は興奮した。何時の日にか自分の物にしたいと憧れていた露草姫の美しい面輪と白い肌のしなやかな身体は、今、自分の手の中にある。黒麻呂は露草姫に話しかけた。

「露草姫様。黒麻呂です。分かりますか。黒麻呂は姫様と一緒です。姫様の御霊は、まだ御身の中に御座いますか。黒麻呂は今、姫様とやっと2人になることが出来て、密かな喜びに酔っています。この閉ざされた密室は、これから共に行く夜見国へと続いています。2人は神によって、媾う相手にされてしまったのです。愛しい姫様は我妻です。これからする事は2人が結ばれる儀式です。ちょっと乱暴かも知れませんが、お許し下さい」

 黒麻呂は、そう言って、露草姫に許可をとると、露草姫を仰向けにして、馬乗りになった。露草姫と、横野ヶ原を駿馬に乗って疾駆した時のように、腰を使った。自分を従え、鹿や野兎を追って遊んだ露草姫としてでは無く、露草姫を自由に操る男となって、露草姫を犯した。犯して犯して犯した。黒麻呂は最早、露草姫の服従者では無かった。汗を滲ませ、動き回り、愛おしさを追求した。腐り行く肉の臭いも残り香のように愛しく感じられた。黒麻呂は露草姫の身体を犯しながら唸り声を上げ続けた。

 

         〇

 翌日、早朝、郷原古麻呂は娘の白妙郎女に泣かれ、密かに8人の土堀りの奴隷を露草姫の円墳に送り、黒麻呂の救出を謀った。土堀りたちが円墳に辿り着くと、カラスが円墳の周りに埋められ死んでいる人たちを突っついていた。土堀りたちが急いで円墳の大きな石の扉を開けると、石室の中から異臭が噴き出し、土堀りたちは、卒倒しそうになった。それでも、勇者が中に入り込み、黒麻呂を救出した。ところが救出された黒麻呂の精神は、正常では無く、白妙郎女のことも分からぬ状態だった。魂を奪われ、気狂いになったに違いなかった。それでも白妙郎女は黒麻呂の事を愛しく思い、絶望せず、父、古麻呂に、自分たちの逃亡を嘆願した。そこで古麻呂は、娘を哀れに思い、黒麻呂と白妙郎女を磯部王の手の届かぬ榛原に逃亡させた。だが神は、それを許さなかった。2人が碓氷の里から逃亡した数日後、榛原の火山が、大爆発を起こした。2人は逃げ遅れて死亡した。磯部王は、逃げた黒麻呂の死を知って、部下に言った。

「あいつは、露草姫に従わなかったから、神の怒りに触れ、神の怒りの炎で焼かれたのだ」

 そう考えたくもなる。黒麻呂は裏切り者だ。道端の石に坐っていた老婆は露草姫と黒麻呂の伝説を、そう話し終えると、更に付け加えた。現在、黒麻呂と白妙郎女が亡くなった場所は、『怒りの炎』が変化して、『伊香保』と呼ばれているのだと・・。

 

       『露草物語』 完